その日、俺は頭が痛かった。
ただ、それだけだ。
彼と話をすると苛々した。
何故だか自分が馬鹿になったような気がしたからだ。
俺は愛想がいいと思われているらしいけれど、それは条件反射のようなものだった。孤児が生きやすくする為に身に付けた本能的な行為だった。
本当の俺は気が短い。癇癪もあると思う。
けれど俺はそれをあまり外には出さなかった。
俺の職場は学校で、子供相手にいちいち癇癪なんぞおこしていられはしなかったから。
もともと子供は好きだったし、自分に向いている職場だと思う。俺は気が短かったから隠密行動は向いていないし、いろいろな事柄を後々まで引き摺る性分なので、さっさと頭を切り替える必要のある忍びの仕事は合わないこともある。
だが、それでも早くに両親を亡くした俺に忍びの仕事は手っ取り早く自活の道を与えてくれた。実働の後、半年事務的な仕事をしてからアカデミーへ出向となり、直ぐに正式の教員になった。
彼とはその仕事の関係で知り合った。
そうでなければ俺のような立場の人間が親しく口をきける相手ではなかった。
彼は上忍だった。
異形の目を売りにした通り名を持つ凄腕の上忍だった。
せぐるような激しい息遣いをしていた。
後ろから押されてしなる背中が切なげに揺れた。
苦しそうな彼はなにか小さな声で低く呟いたようだったが、俺には聞こえなかった。
ああ、まただ。
苛々する。
彼と交わる時はいつもこうだ。
視界が無音の黒と灰色の世界に切り替わる。
陰々としたその中で彼の背中だけが限りなく白に近い灰色だった。
雨が降っていた。
採点していた答案用紙は湿って指に貼りつき、俺を苛々させていた。
「イルカ先生」
声をかけられて顔を上げると、最近すっかり馴染みになってしまったひょろりとした姿があった。
「斡旋所でこちらとお伺いしたので」
これ、と差し出されたのは一枚の紙切れだった。
俺が取り纏めることになっていた書類だった。期限は昨日まで。
彼はこういったことには滅法だらしなくて斡旋所では要注意扱いされていた。こちらが催促しなければ空惚けるし。
「・・・わざわざどうも」
嫌味に聞こえるだろうことは百も承知でそう言ってやった。今日の俺はアカデミー勤務なのでこんな書類を(しかも期限に遅れて)ここへ持ってこられてもどうしようもないのだ。わざわざ斡旋所からこの雨の中やって来たと言うなら、本当にご苦労様としか言い様がない。
「ご機嫌よろしくないようですねえ」
変な言い回しで彼が言った。
「そうですか?天気の所為でしょうかね」
俺はさっさと採点に戻った。夜になれば雨足はひどくなると聞いていた。早い内に家に帰りたかったのだ。
「そうですか」
「そうですよ」
だが彼は会話が途切れた後も立ち去ろうとせず、そのまましばらく突っ立っていた。
俺は気にしない振りで採点を続けようとした。だが、神経はどうしても彼に向きがちで、散漫になる意識に自分で腹が立った。
湿気を含んだ彼の髪はくったりとしていた。その所為かどこかかったるそうにも見える。
「先生」
彼が珍しく控えめな調子で声をかけてきた。俺が仕事中なので一応遠慮しているつもりなのだろうか。
「・・・なんですか」
「ああ、その」
額当ての隙間に指を突っ込むようにしてがり、と頭を掻いた。
「今日は、お仕事、かかるんですか?」
今夜の予定を聞いているらしい。
・・・変な人だ、と思う。
今日はこんな天気で、先刻彼は俺の機嫌が悪そうだと言ったばかりだった。それなのに今夜の予定を聞くのか。
彼は本当に読めない。
何を考えているのか、何をしたいのか。
彼のことを考えるといつでも気分が悪くなった。苛々した。
だが・・・それでも俺は答えるのだ。
「いいえ、それほどでも」
彼は俺が好きなんだと言った。
俺はその時ひどく腹を立てていた。
その日は朝から頭が痛かったし、彼の掴めない行動に対する苛々も頂点だった。
からかっているのかと聞いた。
俺の何が気に喰わないんだと叫んだ。
彼はひどく驚いたような顔をした後、悲しそうな目をして言ったのだ。
あなたが好きなだけなんですと。
俺は笑いそうになった。
嘘ばっかり。
そう思った。
彼は上忍で、頭も切れた。
上手いこと話を逸らして空惚けるつもりなんだろうと思った。
猛烈に腹が立った。
だから。
じゃあ、と言った。
じゃあ証明して見せて下さいよ、と。
職員室に鍵を戻して正面玄関に行くと彼が待っていた。
お待たせしましたと声をかけると彼は小さく笑った。面布と額当てに覆われた彼の顔の中で唯一見える右目のすぐ下に小さな笑い皺が見えた。
意外だった。
本当に意外なことだったが、彼はこの手の経験が少ないようだった。
顔を赤らめて、それでも女のように身体を開いた。
意地なのか、と思った。
俺を好きだなんて言って誤魔化そうとしたのが上手くいかなかったからかと。
「がっかりしました?」
俺の逡巡に気付いたのか、彼はそう言って薄く笑った。臥単を指が白くなるほど握り締めたまま。
「・・・どうして」
「必要なかったからね」
上半身を起こしたまま、俺を身体の間に挟んで脚を開いたまま彼は薄く笑った。
「イルカ先生、あなたには理解出来ないかもしれないけど、人を殺しても眠れる人間はいるんだよ」
「・・・・・・」
「ぐうぐう眠れる人間はいるんだよ」
だから俺にはこういうことは必要なかったんだ、そう言って彼は笑った。
天気が悪いせいで飲み屋は空いていた。
カカシ先生は豆腐が食べたい、と言った。
「湯豆腐。鰹節たくさん乗せてくださいな」
白痴の子供のようにそう言った。
里のならいで言えば格下の俺に女のように、それも安い商売女のような真似をさせられても彼は大人しかった。
言われるままに脚を開いて、俺に都合がいいようにと自分から身体をずらしたりもした。
だが、顔を赤くして、息を詰めるその仕草はまるで。
「ナルトがねえ、そう言うんですよ」
「それじゃサクラが怒ったでしょう?」
「ええ、当のサスケは全然相手にしていないのにね」
そう言ってカカシ先生はくすくすと笑った。
楽しそうに見える。
この人の得意だ。
上っ面だけそう見せかけるのは。
だから俺も楽しそうに笑った。
むかつきと苛々を腹の底へ押し込めて。
何度もそんなことがあった。
彼は大人しかった。いつも。いつでも。
赤い顔で、時々観察するような目で俺を見て。
行為の間、俺は優しくなかったと思うが、それでも彼は大人しかった。
何度も。何度も。
黒と灰色の世界の中で。
俺は頭が痛くて吐きそうだった。
それでも彼の中は暖かで。
食事が終わりに近づくと、彼の言葉は少なくなっていった。
この後のことを考えているのだろう。
麦酒と燗にした酒がちゃんぽんになった頭の片隅で俺も考えていた。
俺はどうするのだろうかと。
この後彼を誘うのだろうか。
だが、この酒場からは彼の家より俺の家の方が近いということを俺は知っていた。
雨は予報通り激しくなり始めていた。
何やってんだよと苦々しげにその人は言った。
咥えていた煙草が噛み潰されるのが見えた。
「馬鹿だ馬鹿だとは思ってたけど、ここまでは馬鹿だとは知らなかったぜ」
アスマ先生は怒っているようだった。万事面倒くさいと切り捨てる彼がこんなに怒る程親しかったのだろうか。彼の前に蹲るように座っているカカシ先生とは。
偶然見てしまったその光景は何故だか俺をひどくむかむかさせた。胃が、せり上がるような。昼に何を食べたっけと思いながら、どうしてだか俺は反射のように気配を隠していた。
「怒るなよ、アスマ」
彼は酷く悪い顔色で薄っすらと笑った。
斡旋所の裏手の日陰になった石段。日の当たらない場所に力なく膝を抱えている彼は病み上がりのように影が薄くて。
「遊びなんだから。ただの」
「カカシ!」
「俺はあの人と遊んでもらってるだけなんだから。ただそれだけなんだから」
ざあざあと、雨が降っていた。
月も星も見えない暗い夜。
ざあざあと。
傘の中、俺の隣のカカシ先生の顔だけが頼りない街燈の中で白く、ぼやりと浮かんで見えた。
ざあざあ。
ざあざあと。
雨が降っていた。
それから俺は彼に口付けをしなくなった。
それまでだって数えるほどに、それも抱き合っている時にしかしたことはなかったが。
感極まった彼が縋るように求めてきても、俺は顔を逸らせた。何度かそんな風にあからさまに態度に出すと彼のほうも求めなくなった。
彼は傷ついたような瞳で俺を見たけれども、俺は二度と彼に口付ける気にはならなかった。
だって、これは遊びなのだ。
ならば、そんな愛情行為のような真似はしなくてもいいだろう。
恋人同士のようなそんな行為は。
だから俺は彼に口付けない。彼にもそんなことは許さない。
だって。
彼が言ったのだから。
はっきりと。
これは、遊びだと。
灯りをつける前に抱きしめた。
後ろ手で鍵をしめながら身体を弄ると彼は首を竦めた。
黒と灰色の世界のなかでも、真っ暗な俺の部屋は静かだった。
彼が息を吐く音が奇妙に長く響いて、消えた。
彼が口を開く。
けれど無音の世界の中では俺に聞こえる言葉はなにひとつなくて。
がくがくと力の入らない彼の腰を支えて、俺は。
頭が。
酷く痛い。
ああ。
苛々する。
彼が腕を伸ばして俺の額に触れた。
前髪を掻き揚げて。
言った。 聞こえない。
カカシ先生。
あなたの言葉は聞こえない。
不意に彼が硬直して俺に爪を立てた。固く目を瞑る。浅い息を繰り返して。
俺が乱暴にした所為だと気付いて、彼の頬に触れた。出来るだけ優しくと。
薄く目を開いて彼が笑った。
酷く悲しそうな、どうでもよさげな笑顔だった。
雨の音が響いていた。
「風呂、沸かしますから・・・」
のろのろと立ち上がりながら俺は彼に言った。
彼は背中を丸めて横になっていた。壊れて捨てられた人形のようだった。虚ろな目をしてぴくりとも動かない。
俺は時計を見た。少しだけなら眠れる。
「・・・か?」
「え?」
カカシ先生が何か言った。聞き取れなくて振り向いた俺の目に、辛そうにやはりのろのろと身体を起こす彼の姿が映った。
「キスして下さい、イルカ先生」
氈布をかき寄せるようにすると暗がりの中で彼はうっそりと笑った。俺が返事も出来ないでいると、
「キスしてよ、イルカ先生」
繰り返し。
「カカシ先生・・・」
「お願いしても、駄目ですか?」
左右色の違う目が闇の中でぼうっと浮いているような錯覚を俺に与える。馬鹿な。猫じゃあるまいし。人間の目は暗がりで光りはしない。
「そんなに俺とキスするの嫌?あなた逃げますよね」
膝を抱えるようにして彼は俺を見た。静かに微笑んでいる。けれど、それは多分嘘の皮。
「カカシ先生は・・・したいんですか?」
乾いた声が俺の喉から漏れた。彼はそれに即答する。静かに。
「したいよ」
「・・・どうして?」
「言ったでしょ」
雨の音。
ざあざあ。
「俺はあなたが好きだって。好きな人とはキスしたいよ、俺」
嘘だ、と思った。
この人は平気で嘘を吐く。
けれどそれは仕方のないことだ。
嘘を吐くのは彼だけではないのだ。
俺達は、嘘を吐くのも商売のうちなのだから。
けれど。
「遊び、なんでしょう・・・?」
「え?」
「遊びだって!あなた、言ったでしょう?!」
「・・・え?」
カカシ先生はまるで子供のような顔で俺を見た。理解出来ない言葉を吐く理不尽な大人を見る子供のような顔で。俺は堪らず叫んだ。
「言ったじゃないですか!あの時アスマ先生に!遊びだって、俺とのことはただの遊びだからって!」
「ああ・・・。言いましたよ」
やっと得心いったようにカカシ先生はゆうるりと笑った。
笑って、言った。
「だって」
だって。
「遊びなら、あなた、俺と寝てくれるんでしょう?」
ざあざあ。
雨の、音。
黒と灰色の視界が。
不意に雑巾で拭われたように色を取り戻す。
「・・・え・・・?」
間抜けた声を漏らす俺にカカシ先生は笑ったまま静かに言葉を続けた。
「だってあなた、俺のこと好きじゃないでしょう?」
俺は。
「だったらこれは遊びでも気分転換でも、ただの好奇心でも構わないです。それでも、俺は」
笑った。
「俺は嬉しいと思ったから」
赤と青の目の下の、小さな笑い皺。
「あなたが相手してくれたのが嬉しい。俺のこと見てくれたのが嬉しい。一回こっきりじゃなかったのも嬉しい」
俺は。
「・・・・・・泣かないで下さいよ」
「え?」
言われて初めて俺は自分の頬が濡れているのに気がついた。
彼はゆっくりと寝台から降りると覚束ない足取りで俺に近寄り、その両腕を優しく俺の頭に絡めた。そのまま静かに自分の肩へ俺の頭を持ってくると、呟くように言った。
「ごめんなさい」
ひっそりと。
「あなたを困らせたいわけじゃないんです。ごめんなさい・・・泣かないで下さいよ、先生」
ああ。
頭が痛い。
がんがんと、割れそうだ。
彼の背中に手を回すことも出来ずに、俺はただ木偶のように立っていた。
彼と話をすると苛々した。
付きまとわれてからかわれていると思った。
好きだと言われて腹が立った。
それなのに。
遊びだと言われて口付けをしたくなくなったのは、もしかしたら。
ざあざあ。
雨が、降っている。
頭が、痛い。
彼は俺の頭を優しく支えていて。
俺が彼を好きじゃないと信じている彼は大人しく俺の頭を抱えていて。
立っているのも辛いだろうその脚で。
頭が、痛い。
ただそれだけだと俺は思おうとした。
だが。
ざあざあ。 雨が、降っている。
頭が、痛い。
ざあざあ。
雨が、降っている。
頭が、痛い。
彼は静かに笑ったようだった。
<完>
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