キスをして欲しかった。めちゃめちゃに。
 壊して欲しかった。余計なものなど残らぬように。
 側にいてもよいのだと思わせて欲しかった。
 あの人の優しい愚鈍さが必要だった。
 今直ぐに。そう、今直ぐに。

 

 

 先生なにかあったんですかと聞く彼の顔は見たくなかった。
 だからその背中にしがみつく手に力をこめた。
 この優しい人は最近俺の顔色を読むようになった。・・・意外や彼にとっては造作もないことだったらしい。
 当然か。彼は教師だ。アカデミーで毎日何十人もの子供達と顔をつきあわせているのだ。子供。この計算高く本能に忠実なくせに恐ろしく傷付き易いうっとおしくも可愛らしい生き物たち。
 ぞくり、と俺は身を震わせた。
 毎日毎日そんなものの相手をしている彼なら、半端者の俺の心のうちなんて簡単に読めるだろう。
 それは、酷くうざったいと同時に、奇妙に官能的な衝動を俺の中に作り出していた。
 「先生、・・・しましょうよ」
 そう耳に囁くと、俺の肩を躊躇いがちに抱きしめていた彼が眉を顰めたのが気配で伝わった。俺はそれが気持ちよくてにやにやと馬鹿みたいに笑った。
 ここは教室で、まだ陽も出ていて、彼が応じる筈がないと分かっていながら俺は繰り返した。
 「先生、して」
 返事をしない彼の身体にゆっくりと腰をすりつけるようにして、以前アスマにサカリのついた雌猫みてぇだからやめろと嫌がられた声を思い出しながら、言った。
 「先生、俺のこと、少しでも好きなら、して?」
 随分と、汚い手だと、自分でも思った。

 

 

 こんなんが見付かったぜ。
 そう言って咥え煙草のアスマが目の高さに掲げて見せたのは銀色に揺れる鎖の先のちっちゃな金属片だった。
 くすんで汚れたそれは数瞬俺の思考を奪った。
 「・・・どこで?」
 「遺品管理場」
 夕飯のメニューを答えるような口調でアスマは言った。その薄い青の目にはなんの表情も乗せずに。こいつの得意なツラだった。
 「・・・何でそんなトコに?」
 「生憎センチメンタリズムなんて繊細なもんは持ち合わせてなくてな、任務だ」
 「任務」
 「Eランクのな。他国に嫁ってた娘さんが亭主の仕事の都合で立ち寄ったんだが、兄さんの遺品が欲しいとさ。ここにゃもう家族はいねえからってよ」
 じゃら、と鎖を揺すると、アスマはゆっくりと煙草を口から離し、煙を吐いた。
 「兄さん、『英雄』なんだと。しかも十二年前のな」
 「・・・!」
 「で、それを探せってウチの班にな。ま、ちょうどよかったさ、シカの奴が足ひねったらしくてよ。当分飛んだり跳ねたりの野外活動はナシにしようと思ってたとこだ」
 「・・・・・・」
 「遺品は見付かったが、その他に」
 そう言ってアスマはまた鎖を揺すった。
 じゃら。
 「これも見つけた」
 「・・・」
 感激しねえな、とアスマは俺を見下ろして低く言った。口調とは裏腹に、思った通りといった顔をしている。
 「泣いて喜ぶとでも思ったのかよ」
 「半分はな」
 「・・・あとの半分は?」
 「殴られると思ったよ。余計なモンを、ってな」
 俺は無言で奴の大きな手から鎖と鎖の先の小さな金属片を受け取った。
 身に付けていた時期が酷く短かったため、古ぼけて汚れている割にカタチはきれいだった。その端の丸いラインを指でたどると、黒い筋が俺の指先に残った。
 「それ、アイツのなんだろう?」
 唐突に、アスマが聞いてきた。
 「どうして?」
 「お前のじゃないなら、アイツのに決まってる」
 バカじゃねえか、と面白くもなさそうに煙草を噛むアスマにもう一度聞く。
 「どうして、俺のじゃないと?」
 「だってオマエ、探してねえじゃねえか」
 「・・・・・・」
 「お前ら二人の名前が彫ってあって、お前の持ちもんじゃねえんなら、ヤロウのもんに決まってら」
 小さな金属片は古い認識タグだった。
 片方には俺の名前が彫ってある。
 そしてもう片方には。

 

 

 木ノ葉隠れの里の忍者はこういう類のものは持たない。
 当たり前だ。どこの世界に自分の身元がバッチリ分かるこんなもんを持って歩く忍者がいる?
 そう言ったのにあいつは黙ってろと言った。
 これをくれたのは依頼人だった。
 旅の細工師。小さな道具で女の人の喜びそうな、髪だの胸だのを飾る細工ものを作っては売りながら里から里を渡り歩いていた。
 その彼が、女房が産気づいて母子ともども危ない状態だと連絡が入ったと斡旋所に駆け込んできた。彼が側にいても何の手助けにもならないだろうに、一刻も早く故郷へ帰りたいんだと叫んだ優しい男。
 交代で彼の手をひいたりおぶったり抱えたりして獣道を夜通し走った。正規の手続きを踏まないで、とにかく時間だけを気にして。
 出来うる限りの速さで男の村に着き、転ぶように妻の様子を見に行った姿を見送って、泥だらけで彼の家の軒先に三人でへたり込んでいると、赤ん坊の泣き声が朝焼けの空に響いた。
 生まれたと、男が泣きながら知らせに来た。ありがとうありがとうと手を握ってきた。戸惑う俺達に彼は嬉しそうに言った。
 「男の子なんだ」
 ほんとう?見てもいい?と一緒の班の女の子が言った。目を輝かせて。・・・ああ、こいつもオンナなんだなとその時思った覚えがある。指一本動かせないほど疲労していても赤ん坊が見たいという。
 薄暗い狭い部屋の中で顔色の悪い女の人が、赤いちいちゃなものを大事そうに抱えていた。俺にはそれが血の塊のように見えて、瞬間ぎょっとしたが、糸のように細い目から涙を流しながらあうあうあと声をあげているのを見て、ああ、やっぱり赤ん坊だとほっとした。
 それからしばらくたって、斡旋所を通して、男からの礼が届いた。
 本来はこういうものは受け取らん規則になっておるのじゃがな、と三代目は言った。まあよかろう、とっておけ。
 簪がひとつと、鎖の通った小さな金属片がふたつ。
 「タグね」
 「タグ?」
 「うん、そお。ちゃんとあんた達の名前が彫ってあるね」
 そう言って女の子は嬉しそうに簪を髪に挿した。さらさらと短い髪にそれは巧く挿さらず、簪は彼女の肩に落ちた。
 「髪を伸ばさなきゃつかえねえな」
 肩から落ちる前に掴んだあいつがそう言って笑った。
 「いいもん。大事にしまっとくんだから。これが似合うころにはあたしもいっぱしのオンナよ」
 その艶めいた言葉に似合わぬ太陽のような笑顔で、言った。
 「凄い美人になってるから、跪いてお願いするならデートしてあげてもいいよ」

 

 

 彼は困ったような表情を俺によく見せた。
 俺はそれが好きだった。
 俺のために彼がつくる、その表情と感情の揺れが好きだった。
 俺は彼を巧く喜ばせることが出来なかったし、彼を悲しませるのは本意ではない。怒った顔は割と誰にでも見せていたので、違うものがいいと思う。
 だから、困って欲しかった。
 馬鹿な俺に愛想をつかさない程度に。
 リアルタイムで変わる彼の表情が好きだった。

 

 

 結局、俺はタグを身に付けることはなかった。
 俺の言い種に腹を立てたあいつが二つとも取り上げたのだ。
 「オマエみたいに他人の気持ちが分からない馬鹿には勿体無い」
 言われてかちんと来た俺も言い返した。
 「いるかよ、そんなもん」
 あいつは二つの金属片をひとつの鎖に纏めると、俺の前でこれ見よがしに首にかけた。
 「オマエに他人の気持ちが分かるようになったらこれ返してやるよ」
 「いらないって言ってるだろう」
 あいつと俺はよくケンカした。それは後をひかないレクリエーションのようなものだったが、たったひとつ、あいつがしつこく言いつづけていたのは。
 俺の気性と他人への接し方だった。
 オマエ、絶対後悔するぞ。
 やたらと真剣な瞳でそう言いやがった。
 俺はうざいと無視していた。
 それからあいつはいつもその金属片をぶら下げていた。
 生きている間中、ぶら下げていた。
 ひっこみがつかなかった俺の目にもすぐに馴染んで、あいつの胸で揺れていたそれはもうずっと俺の記憶の遥か彼方へと追いやられていた。
 ・・・筈だった。

 

 

 よいしょと不精をして柵を跨いで外に出ようとしたらよろけた。慌ててバランスを取り、どうにか転ばずにすむ。
 ありゃりゃ、俺はと小さく苦笑した。それから、気付く。・・・そうか、こういう一人笑いをするからサクラに先生なんかすけべったらしいと叱られるんだな。覚えておこう。
 しかし。
 股関節がぐらぐらだ。
 俺はそのままアカデミーの二階の窓を見上げた。
 彼はまだ教室に居残っていて、細かい仕事を続けている。
 俺はまた口元に笑みが浮かぶのを止められなかった。
 優しいひと。
 きちんとしていて自分というものをちゃんと持っていて、けれど最後は俺に合わせてくれてしまう優しいひと。
 腰を軽く叩いた俺の胸元でじゃら、と小さな音がした。
 袷に手を入れ、二つの金属片を取り出す。傾き始めた紅い陽のなかで鈍く浮かび上がる小さな文字。
 ・・・あの優しいひとがいろいろと気にしているのは知っていた。
 あの人が俺の顔色を読むようになるずっと前から俺はあの人の顔色を気にしていたし、何より馬鹿正直な彼の心の動きはひどく分かり易い。
 けれど俺は敢えて何も言わなかった。
 それが杞憂だということを俺は知っている。
 けれど、彼には言わない。
 俺の手の中で紅く鈍く色づく薄汚れたタグ。それを俺は一度だけ軽く握ると袷へ落とした。
 明日、遺品管理場へ返しに行こう。
 アスマのことだから断りをいれていないかもしれない。ま、そんなことはどうでもいいが。
 たった一晩、一緒にいようと思った。
 たった一晩、それでいい。
 俺は歩き出した。
 酷く歩きづらい脚で、優しいひとのまだ残るアカデミーに背を向けて夕暮れのなかを、歩き出した。