「気合で孕むわよ、女はね」
 そう言った女がいた。
 夜明けも近い酒場の片隅。頭から酒を浴びたようにきつい匂いをさせながら、彼女は目の際を真っ赤に染めて言った。
 「それしか惚れた男の足を止める方法がないなら女はやるわよ」
 暗部にいた頃、任務明けにはよく無茶をやった。とうの昔に潰れて高いびきの連中に囲まれながら、まだガキ丸出しの顔だった俺に呪いの言葉を吐くように彼女は言った。低く笑って。
 「あんたら男共が力で女に言うことをきかせようっていうんなら、女は相応のことをするわよ。それが出来るんだから、女はね」

 

 

 「おはようございます」
 そう言って彼は笑った。俺は半分寝ぼけた頭でぐるりと部屋を見回し、思い出す。
 ああ、そうか。昨夜はイルカ先生のお宅へお泊りしたんだ。
 「食事、どうします?」
 「・・・何時ですか、今」
 あと三十分で正午?イルカ先生の視線を辿って古ぼけた壁掛け時計に目をやった俺はげんなりした。寝過ぎだって。
 「・・・っちゃあ〜、すみませんイルカ先生。邪魔だったでしょ、せっかくの休みに」
 狭い独身用の部屋にごろんと人一人、しかも俺は縦に長い。
 だがイルカ先生は笑って言う。大丈夫ですよ、お気になさらずと。
 この笑顔が、上忍に対するお愛想でなく心からのものに見えるってのはやっぱり得だよ、イルカ先生。まあその代り、妙な誤解するヤツも出て来るんだろうけどさ。
 「それなら昼は外に出ません?俺奢りますよ。寝坊のお詫びに。イルカ先生昼メシはまだでしょ?」
 「よろしいんですか?それじゃお言葉に甘えさせて頂きます」
 提案が先で確認が後と、些か押し付けがましい俺の言い種にも気を悪くした様子のない彼は笑って返事をくれた。
 俺の好きな、ちょっと恥ずかしそうな彼の笑い方。
 ああ、可愛いな。
 馬鹿みたいにそんなこと思っていると、とんとんと控えめなノックの音が玄関から聞こえて来た。
 「はい?」
 「イルカ先生、いらっしゃる?」
 彼が戸を開けると、そこにいたのはくりくりとした目の可愛らしい女の子だった。二十歳くらいかな、綺麗なさらさらの髪をしている。
 「こんにちは、お休みのところごめんなさい。急に来ちゃって・・・」
 「いえ、構いませんよ。どうしたんですか?」
 「ええ・・・ほらお約束したお惣菜、早速持ってきちゃったんですけれど・・・ご迷惑じゃなかったかしら?」
 「あ、それはわざわざすみません」
 「いいえ、それでその・・・あら?」
 俺に気付いたらしい彼女が、誰かいらっしゃるのと彼の肩越しに覗いてきた。途端その笑顔が強張って、
 「あ、あら。こちらもしかして先生の恋人・・・?」
 「ええ?!」
 イルカ先生が頓狂な声をあげ、受け取った皿を取り落としそうになる。
 「こ、恋人?!」
 泡喰って振り向いた顔は茹蛸もかくやという真っ赤っかのか。それが俺の姿を見て大きく目を剥く。俺ははぁいと片手をひらひら振ってにっこりと笑った。
 「カッ・・・!」
 「わ、私失礼します・・・!」
 「あ、いや、その・・・っ!」
 頬を赤くして飛び出す彼女を追い駆けて、玄関から身を乗り出しイルカ先生は叫んだ。
 「ど、どうもすみません!あの、これありがとうございます!皿は洗ってお返ししますから・・・!」
 そうして、次に振り向いた時のイルカ先生の顔は。
 俺は怒るかなと思ったんだけれど、彼は情けなさそうな悲しそうなワケのわからない溜息をひとつ吐いてあなたって人はと言ったきりだった。
 俺はまた嫌味ににっこりと笑うと、髪をかきあげてみる。
 「どうお?イルカ先生。そそられる?」
 「・・・・・・・・・・・・止めて下さいよ・・・」
 むうと俺は鼻を鳴らし薄い肩をそびやかした。
 「上手いこと作れたと思ったのに」
 つるつるの白い肌。豊かな胸と張り出した腰にかろうじて引っかかったような浴衣から(流石に緋襦袢じゃアカラサマが過ぎるよね)すんなりと伸びた脚を組替える。その動きにずるずるの帯が流れそうになる。女体変化。急ごしらえの割にいい線いってると思うんだけど。
 「イルカ先生って淡白ぅ」
 「な・・・!」
 また赤くなった彼は口を開きかけて、そのままがっくりと肩を落とした。
 「あなたって人は」
 「今の女性は?」
 女の姿をこれ幸いにと可愛らしく小首を傾げて聞いたのに、イルカ先生はいやっそうに言う。くそ。
 「・・・斡旋所の方ですよ。俺最近あちらの仕事が続いたんで」
 そういや代書係の中で見たような。
 「それがゴハン作ってくれるんですか、先生に。わざわざ?」
 そう言いながらまだ彼の持っていた皿の布巾を持ち上げて無遠慮に覗き込む。嫌そうに身を引くイルカ先生に構わずその下のラップも剥がすといい匂いがした。
 肉じゃが。
 ・・・あるイミ、死ぬほど判り易いメニューだ。
 無粋に実用的なタッパーでなく、綺麗なお皿に可愛らしい布巾ってとこにも工夫が見られるねえ。勿論返さなくていいプラスチック容器なんざ論外ってワケだ。
 「ちょっと、カカシ先生!」
 えいやと指を突っ込んで文字通りのツマミ食い。もぐもぐと咀嚼して
 「しょっぱい」
 「は?」
 「これソース入れてますね。邪道だ」
 きっぱり言う俺にイルカ先生は、ははと力なく笑いながら、
 「家庭料理なんてその家その家の味付けがあるでしょう?・・・失礼ですよ、カカシ先生」
 意見と行儀を掛け言葉で叱られ、俺はぺろりと舌を出した。
 「この間話してたら、家が近いってことが分りましてね、野郎の一人暮らしは不便だろうって、そのうちなんか持っていってあげるって言ってくれて。・・・まさかこんなすぐ来てくれるとは思いませんでしたけど」
 「連絡もなしにね」
 根性の悪い指摘をするとイルカ先生は軽く俺を睨んだ。ああ、その顔新鮮でいいかも。
 「・・・カカシ先生」
 「はい?」
 「その顔、それサクラ入ってますね」
 「ええっ?!」
 俺は慌てて壁に唯一掛かっているフレームの壊れた鏡に飛びついた。狭いイルカ先生宅には洗面台なんて洒落たもんはなく、彼は毎朝この鏡で髪を整えているらしい。
 「そうですかあ?サクラ、こんな顔でしたっけ?」
 頬から顎を擦りながらチェックする。思い切り美人に作ったつもりだったんだけどなあ。
 や、サクラが美人じゃないってわけじゃない。サクラは可愛い。アスマんとこの子より紅んとこの色白ちゃんよりガイのとこのあの子より絶対可愛い。
 だがこの場合俺が目論んだ顔より絶対的に色気も汁気も足んない。足んない・・・と思う。
 「入ってますよ。目元なんか特に似てます」
 「うーん・・・」
 男忍者の変化は女忍者のそれより趣味が入り易い。希望とか好意とか妄想が端的に表れるのだ。男はイマジネーションの生き物だから仕方ないんだろうけどさ。
 特に女体変化は女のシュミがもろに出る。
 そうでない場合は身近の女の面影が出易いそうだ。母親に似たり、姉妹が入る。恋人や幼馴染だったりする時もある。
 もっともそれは個人差があって、おマエそりゃあモロバレだろうってえ奴がいれば、言われてみれば入ってるような、という感じの奴もいる。特別上忍の中で器用に何通りにも変化できる奴がいて周りはお前どういうすけべだと口々に言うが、本人はいつも咥えている長楊枝をくるくると廻すばかり、にやにや笑って答えない。アスマ言うところの男地獄のような色男だから推して知るべし、なんだろうが。
 「参ったなあ・・・先生、サクラには黙っていて下さいよ」
 「さあ、どうしましょうかね」
 「いえホント、頼みます。俺またセクハラって言われちゃいますから」
 「また?」
 「いえその」
 今度は俺がはあと情けない溜息を吐く。
 「参ったなあ。この間までは紅だって言われてたんですよ、俺」
 「紅先生・・・ですか?」
 先生の顔が妙な具合に歪むのを見て俺は慌てて否定した。
 「ち、違いますって!周りがそう言ってただけですよ、俺も紅も似てない似てないって言ってたんですけど、他の奴等面白がって・・・」
 「はあ」
 「それが今度はサクラかあ・・・」
 「カカシ先生、お分かりでしょうけれど・・・担当指導官が下忍になり立ての子供に妙なちょっかい出したら駄目ですよ?」
 「してませんよ!ちょっかいは出しますけど妙じゃありません!あれは愛情のあるコミュニケーションです。チームの運営をスムーズにする潤滑油ってやつです!」
 「・・・・・・・・・・・・」
 どういうイミなのか、軽く頭を左右に振るとイルカ先生は食器戸棚を開けた。そしてくすくす笑って言う。
 「にしても・・・寂しいですねえ、カカシ先生」
 「は?」
 「女体変化に出るのが部下の姿だなんて」
 「う・・・」
 「・・・恋人とか、いらっしゃらないんですか?」
 仇をとられてるなあ。イルカ先生の背中に向かって俺は自棄で言う。
 「生憎、里の女の人はスーパーエリート上忍写輪眼のカカシの名に気後れしちゃってねえ」
 「はいはい」
 「・・・流さないで下さいよ、そこ」
 「それじゃ昼メシ参りましょうか?」
 そう言って笑いながらイルカ先生は肉じゃがを布巾ごと食器戸棚に仕舞ってしまった。
 「・・・食べないんですか?ソレ」
 「食べますよ、勿論。後で」
 もう一度イルカ先生は笑う。
 「あなたが帰った後でね」
 それから、さあてと業とらしく腕を組んでイルカ先生は言った。
 「何にしましょうかね?蓬莱亭の揚げ物か『なな里』の懐石、あ、久し振りに福来で牛鍋なんてのもいいですねえ」
 「げ。ちょ・・・イルカ先生?」
 それって里の中でも美味かろう高かろうってのばっかしでしょ?!
 「ご馳走になります、はたけ上忍殿」
 そう言ってぺこりと頭を下げると、言質を取られてグウの音も出ない俺ににっこりと笑ってイルカ先生は言った。
 「でもその変化は解いていって下さいね」

 

 

 彼女の考えていたことなんて多分丸分りだった。
 中忍の女の子。くノ一として特別な能力があるわけでもなくて、専ら里での事務仕事。年頃になっていろいろ考えることもあったのだろう。結婚とか出産とか。忍者同士なら里から出る手当はこれくらい、とか。
 そんな彼女の前にイルカ先生。
 斡旋所で事務をやっている中忍には大人しいのが多いようだ。頭が良くて気も利く。けれど積極性というか、進んで危ない橋は渡らなそうな。そんな中で見たらイルカ先生みたいのは新鮮だったんだろうねえ。
 それにイルカ先生は二枚目ではないけれど、男らしいしっかりした顔付きだし、笑った顔なんか無茶苦茶爽やかだ。見ている方が笑っちゃうくらいに。しかも教職。危険な任務も少なそうだし、何故か三代目の覚えもめでたい。
 だいたい。
 誰にでも笑いかける、誰にでも優しいてのはよくないよねえ。誤解やら期待やらさせるって、絶対。
 ・・・こう考えるとイルカ先生も結構罪作りだよな。
 だから彼女が頑張っちゃおうかなーという気持ちになったのもよく分かる。こんにちわぁ、お惣菜持ってきちゃったんですけれどぉなんて鼻に掛かった声で喋っちゃったり、独り暮らしに肉じゃがなんてスタンダードすぎる作戦も可愛いもんだ。
 それに。
 引っ掛かりそうだもんなあ、イルカ先生・・・。
 目の前で美味そうに料理をぱくついている(結局どの店に行ったかはご想像に、だ)イルカ先生を見ながらそんなことをぼんやり考えていた俺ははたと気付いた。もしかして。
 俺はイルカ先生に悪いことをしたのでは。
 女には、特にくノ一には独特のネットワークがある。イルカ先生恋人いるんですってー、美人でぼいんばいんで休日の朝っから寝乱れたカッコウで部屋ん中うろうろしてるの見ちゃったー、なんて噂になったら。
 どうしよう、ごめんなさい、俺アナタの婚期滅茶苦茶遅らせたかも。
 カカシ先生、どうかしました?なんて可愛らしく聞いてくれる彼に向かって、内心で手を合わせた俺だった。
 ああ、でも。
 そうしたら、俺でもいいって言ってくれるかな。

 

 

 「なんだよー、先生達イケてねえってばよ!せっかくの休みに野郎同士でデートなんて」
 偶然会ったナルトはそう言って哀れむように俺達を見て笑った。・・・くそガキ。
 「そのせっかくの休みに幼児と忍者ゴッコしてるヤツに言われたくないぞ」
 俺がぼそりと呟くと、斜め後ろの板塀の前で石垣の描いてある布で隠れていた(つもりの)お孫とお仲間が幼児って言うなあコレと怒り始めた。
 「イルカ先生、カカシ先生なんかと付き合ってるとイチャパラがうつるってばよ!」
 「・・・なんだよ、ソレ」
 「まあでも安心しろってばよ、イルカ先生には俺が火影になったら可愛いオヨメさんみつけてやるから!」
 「おお、それじゃイルカ先生一生独身決定ですね!」
 「・・・カカシ先生」
 「むきー!」
 怒るナルトと幼児達の罵声をBGMに俺は笑ってイルカ先生に言う。
 「まあ、そうなっても俺はイルカ先生にお付き合いして差し上げますから、安心していて下さいね〜」
 「・・・お気遣いなく」
 「いえホント」
 「・・・・・・・・・・・・」

 

 

 惚れた男の気を引く為にならなんでもやるわよと酒臭い息で笑った彼女はもう何年も前に死んでしまった。
 その仕事の性質上、暗部の女はどうしても消耗品になってしまう。
 酷い殺され方をしたと人伝に聞いて、俺は墓参りに行ってみた。
 任務に失敗して殺された彼女は里の英雄にはなれなかった。身寄りのない彼女は忍者らしく解体された後無縁墓地に放り込まれた。格別親しかったわけでもない俺がわざわざ足を運んだ理由はなんだったのだろうか。自分でもよく分からなかった。ただの気まぐれだったのかもしれない。
 だが比較的新しい卒塔婆の立っている辺りに足を踏み入れた俺は目を見開いた。
 其処には。
 一面の風車。
 真っ赤なそれがからからと風に吹かれて無数に立っていた。
 惚れた男の気を引く為に。
 では、彼女はその相手を手に入れていたのだろうか?
 此処に来る前に彼女を解体した奴から聞いた話。
 子供が、いたそうだ。彼女の子宮に。
 何度も堕胎した痕があったと言って、その痩せた男は疲れた表情で言った。
 「女ってのはすげえな」
 あんな傷だらけの身体で、それでも。
 俺が何も言わずにいると、そいつはこのこと口外するなよときつい調子で言いやがった。
 「言うかよ・・・お前こそそんなこと俺に言うなよ」
 「そうか、はは・・・悪いな」
 そう言って青褪めた顔で笑ったそいつが、彼女の幼馴染だと知ったのはそれからずっと後だった。
 俺は手を合わせることもせずに、ただ回る風車を眺めていた。からから、からからと乾いた音を立てて回り続ける無数の赤を。

 

 

 俺は隣を歩くイルカ先生をこっそりと見た。
 もしかしたら俺の変化は一生サクラかも。そう考えて笑いそうになる。彼女は顔色を変えて、いやだ先生やめてよと叫ぶことだろう。ごめん、サクラ。はは。
 肉じゃがも子供も俺は作って上げられないけれど。
 俺だって何でも出来そうな気がして来た。惚れた相手の気を引く為に。気随者で根気のない俺が。
 この人を見ていると、そんな気になる。
 だって。
 「カカシ先生、ちょっと本屋へ寄ってもいいですか?」
 「いいですよ。俺も見てみたいのあるし」
 「・・・それってまさか」
 「ブー。イチャイチャパラダイス次巻は秋まで発行予定ないんです」
 「そうなんですか」
 「うわーあからさまにほっとしましたね、先生・・・」
 気合でも何でも。
 俺に出来ないことが出来る相手と張り合わなくっちゃならないなら。