まず最初に空気が気持ち悪い、と思った。
 この国は初めてだった。彼女が生まれ育った場所から幾分か西に在るというだけでこれほどの湿気。うっとおしく纏わりつき、いらない汗を浮かせ衣服を貼り付かせる。時折感じる風も重たげで、故郷のさらりと乾いた風が懐かしいと彼女は軽く頭を振った。
 如何なる環境にも素早く馴染むよう、体調を崩すことなく任務を遂行出来るよう訓練されて来た。この風土にも直ぐ慣れてみせる。差し迫った大事に差し支えぬよう。
 自信はあった。
 が、生理的な嫌悪感は拭い難い。此処のぬるぬると生温い空気が妙に嫌いだ。
 以前一度だけ受けたBランク任務は霧の国でのものだった。四方を海に囲まれたかの国の見慣れぬ植物が吐き出す空気も湿気を含み、彼女の肌に纏わりついたが、これほど不快ではなかった筈だ。
 ・・・ナーバスになっているのか?この私が。
 ふん、と彼女は鼻を鳴らした。
 馬鹿な。
 確かに任務は重大だった。だが、それに怯んだりする自分ではない。
 「それとそれ、二つずつ・・・」
 背後では常と変わらぬだらしのない喋り方で彼女の兄弟がなにか買っていた。先程から店先で美味そうな匂いをさせていた蒸し器から。
 「はいよ、・・・アンタらこの里の人間じゃないねえ?」
 「あ?そんなの額当てみりゃー分かるじゃん」
 ほかほかと湯気をたてる食い物を紙袋に詰め込みながら愛想よく声をかけて来た店の老人に彼女の兄弟は五月蝿そうに答えた。
 気が小さいクセにいちいち他人の神経を逆撫でするようなことばかりする弟を諌めるのもとうに止めていた。彼が背も体重も自分を超えるよりもずっと以前から。気性の勝った彼女から見れば弟の曲がった根性はみっともなく情けないものだったが、それで彼が痛い目を見るのは自業自得。自分に火の粉が飛んでこぬならどうでもいいことだと彼女は思っていた。ただ血が繋がっているというだけの話なのだから。
 「そうかい、そうだねえ」
 だが老人は気分を悪くした様子もなく、にこにこと皺だらけの顔で笑った。
 「それじゃ試験で来なすったのかい」
 「・・・他になにかあるってのかよ。じゃなきゃわざわざこんな所来るわきゃないじゃん」
 温度差のある会話を背中で聞きながら彼女は鬱陶し気に息を吐いた。
 私の弟は二人ともクズだ。
 嫌いだ、と彼女は常々思っていた。だがそれでも。
 それでも。
 「成る程ねえ、砂の国は近いが来るのは面倒だわなあ」
 変わらず優しい調子でそう言うと、老人は再度蒸し器の蓋を開けた。
 「それじゃあ試験頑張ってな。これはおまけだ」
 激励にもサービスにも返事をせず、弟は品物を受け取り、金を払った。どうせまたあのうざったそうな表情か、他人を小馬鹿にした薄笑いを浮かべているのだろう。
 「テマリ」
 待たせたじゃん、と紙袋をがさがさ言わせながら言う弟の、背中に背負った愛用の木偶人形越しに老人の姿が見えた。思ったよりも若い。蒸し器の蓋を戻し、火の調節をするその手のうち、右は小指と薬指が無く、中指は半分ほどの長さしかなかった。顔にも酷い傷があり、一度砕かれた顎と引き攣れた唇から出される声が彼女の耳にはひどく年を取っているように聞こえたのだとテマリは知った。
 気をつけてみれば、この里には不具が多い。
 里の住人は老人と子供ばかりだ。忍装束の平均年齢もひどく若そうだった。
 三十、四十代の男が極端に少ない。
 偶に見かければ必ずといっていいほどその身になにかしらの傷を負っていた。肩からだらりと下がった中身の無い袖。杖に頼り引き摺るような脚。引き攣れた傷。焼け爛れた肌。
 知識としては知っていた。
 酷く有名な事件だったから。
 事の怪異さと被害の甚大さで。
 「食うか?」
 湯気の立つ紙袋を無造作に突き出しながら饅頭を頬張ったカンクロウが言う。偶には兄弟らしいことでもしようと思ったのだろうか?珍しい、とテマリは思った。・・・どんな気まぐれなんだか。
 「・・・いらん」
 「ふん」
 素っ気無く答えるのに、これまたどうでもいいと言った調子でカンクロウは返し、はぐはぐと饅頭を食いつづけた。
 「あれ・・・あいつ忍者だったんだな」
 「あ?」
 「あの饅頭屋だよ」
 「は?なんでだよ?」
 ち、とテマリは舌打ちした。
 「相変わらずニブい野郎だな。一般人が他所忍の私達がうろついてるってだけで即中忍試験と結びつけて考えるかよ。それにあいつのあの御面相・・・あれ、十二年前の事件の置き土産だろうな」
 「相変わらず細かい女じゃん。だったら何だって?怪我して引退した鈍臭い元忍びなんて俺達に関係ねえじゃん」
 「・・・・・・・・・」
 「テマリ?」
 「・・・・・・いいさ、別に。それよりアイツは?何処に行ったんだ?」
 途端にカンクロウの顔が不快気に顰められる。蛇でも踏んづけたような調子で言う。
 「・・・いいじゃん、居なきゃ居ないで」
 「カンクロウ」
 「大体俺はアイツが大嫌いなんだよ。任務でもなきゃ誰があんなバケ・・・」
 「カンクロウ!」
 ぎっとテマリは睨みつけた。此処は忍びの里だ。何処に目があり耳があるか。
 己の失言に気付いたカンクロウも素早く周囲を探った。が、何も感じられないのにほっと力を抜き、悪ぃ、と呟いた。
 カンクロウが二つ年下の弟、我愛羅を病原菌のように忌み嫌っているのはテマリもよく知っていた。彼にとってその体内に砂の化身を宿した我愛羅は恐怖と不条理の象徴だった。初めてその「姿」を目にした時は三日も物が食えなくなった。吐いて吐いて。
 だがそれはテマリも同じことだった。
 砂の化身に憑かれた幼い殺戮者。眠らないバケモノ。
 気持ち悪いと思う。恐ろしいと思う。心底。だがそれでも。
 それでも。
 「・・・とにかく、我愛羅を探そう。先生に知れたらまた大目玉を食らうぞ。試験前にアイツになにか騒ぎを起こされでもしてみろ」
 「分かってるよ」
 まだ嫌そうにカンクロウは同意した。その表情がまたテマリに眉を顰めさせる。
 ふざけるなよ、私だって好き好んで・・・。
 仕方がなかった。
 今回の試験は開催地、木ノ葉の取決めによりスリーマンセル制での試験だった。
 四人組制は隠密活動において尤もよく使われる編成だ。それ以上ではどうしても目立つ。
 木ノ葉ではこのうち三人を下忍で固め、残る一人に指導員として上忍を入れ、実戦形式で新人育成をしていると言う。
 何代前かの火影と呼ばれた狡猾な忍者の考えた教育システムだとテマリは彼女の師、今回の試験の引率役の上忍から聞いていた。
 「これは恐ろしく効率のいいシステムだ。但し新人を育成するという意味ではなく、な」
 過去の任務で半面に残された醜い傷を隠す為の布の影から、低い、地を這うような声で三姉弟の師、バキは言った。
 「新人育成以外に?それってどういう・・・」
 「以前、木ノ葉隠れの里を襲った九尾の事件を話したな。・・・壊滅状態だったあの里が奇跡のように復興し、再び忍び五大国の要へと返り咲いた。・・・どうやって?」
 バキは寡黙な男だったが、幼い生徒に話すことを嫌ってはいなかった。
 木ノ葉隠れの里の奇跡の復興の原動力。
 それは。
 「里に対する愛着さ」
 火影を頂点とした濃密な里に対する愛着。それが里の人間を奮い立たせた。忍者も、そうでない者も。彼等はその身を削り、里に尽くした。
 「そしてその為に件のスリーマンセル制は非常に都合がよかった」
 九尾の一件で親兄弟を失ったものは多かった。そうでなくとも忍者には家庭を持たない者も多い。特殊な血筋、いわゆる血継限界と呼ばれる一族以外は子供を残すことにも執着しない。
 「家」に対する執着が薄いのだ。
 そうでなくとも裏切りに慣れ、利害計算での行動が多い忍び稼業。壊滅状態の里に見切りをつけ、出奔する者が出ても不思議はなかった筈だ。他国に身売りしようが金持ちの子飼いになろうが、食っていけるだけの技術は既にその身に在る。
 だのに彼らはそうしなかった。
 「里がスリーマンセルという形の『擬似家族』を押し付けていたからだ」
 四六時中べたべたと一緒にいれば、しかも危険な任務を共にすれば。
 「その内互いに生まれた感情が縛り合うことになる」
 「感情?」
 「『愛情』と『信頼』だ」
 下忍は指導員を師と仰ぎ親と慕う。指導員は子供のように弟妹のように部下を想う。それが支えになり枷になり、彼等は里を捨てられず里を愛し里の為に尽くす。
 「三代目火影はプロフェッサーと呼ばれる頭の切れる忍者だ。スリーマンセル制の利を知り尽くし、充分に利用したのだろう」
 反吐が出る話だ、とテマリはその時思った。一緒に話を聞いていた弟達がどう思ったかは知らない。だが彼女は嫌悪した。その脆弱な心に。えげつない構造に。
 ぬるい、と思う。
 この里も、里の空気も住んでいる人間達も。
 ヌルイ。
 くしゃり、と音を立ててカンクロウが饅頭の入っていた袋を潰した。いつの間にやら全部食べてしまったらしい。
 「この里も里の奴等もムカつくじゃん」
 テマリの頭を読んだようなことを不意に言い、無造作に紙屑を放り投げた。
 「でも、食い物だけは美味いじゃん」
 肩を揺する彼の背中で愛用の人形のぼさぼさの髪が笑うように、同意するようにがくがくと揺れた。
 不意にテマリの脳裏に先程の饅頭屋の老人の顔が浮かんだ。カンクロウに対して浮かべていたであろう笑顔。背中を向けていた彼女には見えていなかった筈のそれが、妙にありありと。
 欠けた指で饅頭の袋を差し出し、おまけだと潰れた声で言った。
 ヌルイ。
 吐き気がするとテマリは思った。
 ぬるい。
 この里も、里の空気も住んでいる人間達も。
 ヌルイ。
 先の角から子供達の叫び声と走る音が近づいてくる。
 長閑で暢気な里の風景。
 ガキがうるせーじゃん、舌打ちするようにカンクロウが言った。
 ぬるい、と思う。
 この里も、里の空気も住んでいる人間達も。
 ヌルイ。
 テマリは唐突にこの里の行く末を思った。
 直に仕掛けられる「木ノ葉くずし」。
 どう対応する?このぬるい里が。人間が。
 だが取敢えずは。
 「カンクロウ」
 テマリは低く弟の名を呼んだ。決して彼女の言うことなど聞かない弟を。
 「我愛羅を探すぞ」
 返事をしようとした彼の腹に、走ってきた子供がぶつかり、跳ね飛ばされるように転んだ。

 

 

 ぬるい、と思う。
 この里も、里の空気も住んでいる人間達も。
 ヌルイ。
 テマリは思う。

 

 

ヌルイ。

 

 完