ふと気が付いて顔を上げれば、昼休みが終る寸前だった。
慌てて弁当の包みを掴むと読んでいた本を抱え、走った。
次の時限は空いていたが、職員室の留守役をしなければならなかった。他の先生方は皆授業がある筈で、まさか職員室を空っぽにするわけにもいかず、俺は泡を食って走った。
昼飯を食っていた中庭から、職員室のある旧校舎までちょっと距離がある。普段廊下を走るなと生徒にやかましく言っている手前、見付からないようにと祈りながら頭を下げて懸命に走った。
どうにか最後の先生が出て行くのに間に合った。鍵を締めていこうかと思ったと最後までいてくれた童顔の暗号術の先生は笑って、俺はどうもすいませんと頭を下げた。
一人きりの職員室は静かだった。俺は引出しから茶の包みを取り出すと、自分の湯飲みに放り込み、魔法瓶から湯を注いだ。唐突に立ち昇った唐茶の匂いが、これを好きな彼を思い出させてちょっとこそばゆい気がしたりする。
席に戻ると読みかけの本を手に取った。俺の私物には珍しくカバーがかかっているそれは目的のやましさを表しているようで知らず口がひんまがる。
通俗的な物語の本だった。
男がいて、女がいて、好いたハレたの、ただそれだけの物語。
ただ、それだけ。
ごほんと大きく咳払いをして俺はその本を手にとった。周りに誰もいないというのに、仕事の本を読んでいるような、さもさもらしいといった表情で。馬鹿みたいだとは自分でも思うが・・・思うが仕方ない。多分それが俺の性分ってヤツなのだろう。
好きなんですよと、同じ本をカバーをかけずに読んでいた人を思い出す。
どんくさい俺が、どういった本なんですか、面白いんですかと聞けば、
「すげええっちいの。・・・面白いですよ」
器用に片手で本を挟み、その派手な表紙で口元をかくすようにして笑った。
イチャイチャパラダイス。
軽薄な題字の上でカカシ先生の片方だけ見えている目が愉しそうに細められていて、俺はどぎまぎした。そうなんですかとかなんとか、間の抜けた返事をしていたに違いない。
「・・・なんてね」
カカシ先生は噴き出すように笑うとそう言った。
「なんてことない恋愛小説なんですよ、中身はね。通俗的な。けど」
「けど?なんですか?」
カカシ先生はぱちぱちと数度瞬きをすると、また小さく笑ったようだった。また変なこと言ったかなと不安になった俺が慌てて口を開こうとしたらば、
「けど、それだけじゃないんですよ」
カカシ先生は不意に大真面目な表情で言う。
「イチャパラのテーマはズバリ愛!なんですけれど、俺にはそれだけとは思えないんです。その根底には忍者として必要な『何か』が流れているような気がしてならないんです」
「な・・何かって・・・何ですか?」
「わかりません」
だから読み続けているんです。
そう鼻息荒く語っていた。
が。
「まあ、でも」
不意にまた悪戯っぽく笑うと、
「えっちいのも嘘じゃありませんがね」
そう言った。
昼下がりの斡旋所前。任務を終えて戻ってくる子供達を待っているという彼に偶然遭った時の話だった。
ごくり、と唐茶を一口飲むと俺は続きを読み始めた。一昨日から読み始めたのだが、なかなか進まない。文章は読み易く映像的な印象だが(時折おそろしく大仰な時代が掛かった表現があるのもご愛嬌だろう)、まとめて読めないのだ、俺が。
作中では男が女に責められていた。昔の知り合いという女性と仲がよすぎるというのだ。確かに彼女に惹かれていた時期はあった、だが今俺には君がいると言う男に女は叫ぶ。
『じゃあ証明して見せてよ』
どうなるんだろうと次のページを捲って・・・茶を吹きそうになった。
うわ。
また始めやがったコイツら!
ばちん、と本を閉じた。
別に照れたんじゃない。俺だって健康なオトコなんだからこういうのは嫌いじゃない。嫌いじゃ、ないが。
なんというか。
妙に生々しい気がしてしまうのだ、今の俺の状態では。
そう。
俺は、恋をしていたのだ。
この作中の男や女やその他大勢と同じように。
子供達は確実に成長していますよと報告書に筆を走らせながら、おっとりと彼は言った。
「あの年頃はなんだってベンキョウです。失敗したってへこたれてる間もありゃしません。・・・これで訂正よろしいですか?」
「あ、ああ、はい、大丈夫です。あの・・・ありがとうございます」
「・・・書類書き間違えたの俺なのにありがとうなんて言わないで下さいよ〜」
却って責められてるみたいですと眉をハの字にして言ってくるカカシ先生に、俺はつい笑って言ってしまった。
「違いますよ、子供たちの方です」
「ああ、そっち・・・でもそれだって俺のシゴトなんだから先生にお礼言われるようなもんじゃ・・・」
「いいんですよ、俺がそう思っただけなんですから」
「え?」
「ありがとうございます、って。カカシ先生に」
言えば、カカシ先生は目を細めて優しく笑ってくれた。
俺は単純にそれが嬉しくてたまらなかった。
そんなささやかだけれど俺には大切なことが何度かあって。俺は顔岩から飛び降りるような覚悟で彼に告白をした。
「あなたが好きです」
口説くどころじゃなかった。恋の病のなんとやらで俺はめっきり食が細くなっていた。胸は詰まって頭はぼやぼやで、もうどうしようもない状態だった。苦しくて苦しくて。任務報告にいらしたカカシ先生の後を追い駆けて、半ばヤケクソのように告白したのだ。
「ご迷惑だったらすみません。でも好きなんです。本気なんです」
「・・・・・・ご迷惑じゃありませんけど」
夕暮れの中。赤く染まったカカシ先生は猫背のまま小首を傾げるように聞いてきた。
「それでイルカ先生はどうしたいの?」
「は?」
思ってもいなかった展開に俺は間抜けた声を出した。そんな俺を面白そうに見ながらカカシ先生はにこにこと、
「恋人にしてくれるの?」
そう聞いてきた。
そして俺達はそうなったのだ。
恋人同士に。
俺はぼうっと、カバーのかかっている表紙を眺めた。
「もうちっと、なあ・・・」
溜息を洩らすように言う。
「俺が知りたいのは入り口の方なんだよなあ」
そうなのだ。
カカシ先生も俺を好きだと言ってくれて、俺の恋人になってくれた。あっさりと額当ても面布も下ろしてくれた。食事も飲みも付き合ってくれる。俺の家にも来てくれた。
「アナタとする食事は美味しい」
そう言って、笑ってくれる。
けれど。
顔を上げて壁にかけてある行事入りのカレンダーを眺めれば、七月。
カカシ先生が俺の恋人、になってくれてからそろそろ一月だ。
へたりと机に額を押しつけ、頭を抱え込んでみた。
そろそろ、と思ってしまうのはよくないことなのだろうか。
先を望んでしまうのは。
誰もいない職員室は静かで、俺はそっと目を閉じた。火遁の練習をしている組があるらしい。微かに音が聞こえている。
俺の瞼の裏でカカシ先生は笑っていた。額当ても面布もない顔で。
好きだな、と思う。
単純に。
これが恋というものだと、馬鹿みたいに信じられる自分が嬉しかった。
けれど。
どんどん欲もかいてゆく。
はあ、と突っ伏したまま、目を閉じたまま大きく溜息を吐いた。
カカシ先生の。
近くにいきたいなと、思う。
馬鹿みたいに。
今よりも、ほんの少しでも近くに。