月額480円〜の高速レンタルサーバー ColorfulBox

 

 

 きっかけは何でもよかったのかもしれない。
 唯この下腹に溜まるどうしようもない熱を散らしたかっただけで。
 彼がひどく都合がよく見えたのも事実だった。
 それに、その夏は暑かった。
 ただひたすらに、暑かったのだ。

 

 

 骨と、筋と、腱。あとはほんの少しの脂肪。
 そんなことを思いながら彼の体を擦り続けた。
 俺の下で今日も大人しい彼は浅く息を吐いている。注射を堪える子供のように固く目を瞑って。
 この腹の中。
 唇を落としながら思う。
 危険な任務の多い彼の内臓はストレスでさぞや汚い色をしているのだろう。
 腹黒い、そんな言い回しを思い出し、言いえて妙だと小さく笑った。
 部屋は暑くて俺も彼も濡れたように汗をかいた。臥単が濡れた手足に纏いつく。身じろぐ彼の背中にも貼りついて、呼吸に混じった布の擦れる音が妙にはっきり耳に届く。
 狭い場所のぬるりとした感触が俺の頭の中からいろいろなものを追い出す。
 ああ、空が青い。
 切り取られたように四角い空を見上げ、俺はそんなことを考えた。今日もいい天気で。からりと晴れた空、固まった白い雲。けれど俺の指先はそんな景色とは無縁なぬらぬらとした感触を俺に伝え続けて。
 彼が小さな声を、吐息のような小さな声を立て俺を見上げた。
 眇めるような両の色は、同じ顔に嵌っているのが不自然なほどの、極端な青と赤。

 

 

 窓から入る風が白いカーテンを大きく膨らまし、涼しいような錯覚を与えてくれる。けれど耳にはそれを裏切る蝉の声。
 今日も暑い。
 ひとりきりの職員室で書類を纏める手を止め、外を眺めた。きらきらと明るい景色。にょきにょきと育った向日葵越しのそれは白々しいほど様になっていて、絵葉書かカレンダーを眺めているようだ。
 少し前まで一緒にいた初老の先生は夏は暑い方がいい、と皺だらけの額に汗を浮かべて笑っていた。
 夏は暑くて冬は寒い、それが道理ってもんでしょう。
 そう言って帰り際に俺に麦茶を差し出してくれて、梅雨に雨がたくさん降ってくれたからこれくらい暑い方が果物が甘くなるだろうとまた笑いながら言った。
 俺もそうですねと言って笑った。
 夏休みのアカデミーは人気がなく、ただ蝉の声が響いている。
 平日ならば補習もあるし熱心な生徒が自主練や書庫を利用に訪れたりもするが、生憎今日は日曜で、おまけに今は一日で一番日差しの強い時間帯だ。わざわざ訪れる人もいない。
 暫くカーテンと風の白い緩やかな踊りを楽しむ。ふわり。ふわふわ。
 けれど伴奏は忙しない蝉の声。
 合わない共演だなと小さく笑って額の汗を拭った。机の端に乗せた少し新しい額当てに、ナルトはどうしているかなと不図思う。
 次に皆の休みが合う時、滝へ行くことになったと言っていた。
 皆、は同期の下忍の男子達のことだそうだ。
 俺はその話を聞いた時、ひどく驚いたもんだ。皆在学中は見事なまでに協調性のない子供ばかりだったから。
 些かの傲慢さが目立つキバはそれでもまだマシな方で(自分が大将でなければ気を悪くするような幼さはあったが)、感情を表に出さないシノは何を考えているか全く分からなかったし、シカマルは毒舌の上無類の面倒臭がり、チョウジは食べること以外は驚くほど根気がなく何に対しても逃げ癖があった。出来の良過ぎるサスケはその為に周りに合わせることが出来ない。どちらかと言えばクラスから浮いた印象の子供ばかりだった。
 そして、ナルト。
 在学中は唯の一人も友達のいなかったあいつが友達と誘い合って遠出をするなんて。はしゃいだ声でその話を聞かせてくれた時は不覚にも泣きそうになった。
 あいつだけじゃない。教師に素行に問題ありと言われた子供だって自分の足で立つようになればちゃんとなるもんだ。俺はそれが単純に嬉しい。
 そう考えて、かつて俺にこう言った人がいたことを唐突に思い出した。
 アイツらはもうアナタの生徒じゃない。
 蝉の声が五月蝿いな、と思う。

 

 

 蝉が、と言ったのは彼だった。
 え、と俺が汗まみれの顔を上げれば、彼は俺の腕の中でぼうっとした顔で窓を見上げていた。白い顎を反らすように窓を見つめ、唯一自由になる左手で緩慢な仕種で髪をかき上げ彼はもう一度呟いた。
 「蝉が・・・」
 「蝉?」
 「ええ、随分鳴いているなと思って・・・」
 その目は相変わらず窓に向いていて、まるでその蝉が彼には見えているかのようだった。臥所の中から、しかも仰向けの彼からは嫌味なほど青い空しかその目には映らないだろうに。
 「イルカ先生・・・」
 互いの熱を舐めあうようになっても彼は俺を「先生」と呼んだ。
 「なんで蝉って鳴くんでしょうね」
 「え・・・?」
 緩く肩を動かし、彼は溜息のような呼吸を洩らした。
 「コオロギや鈴虫みたいに恋人を恋うてるわけでもないのにね。・・・なんであんなに鳴くんだろう。あんなに必死に。まるで・・・」
 ごそ、と身体を揺するともう一方の腕も俺の下から引き摺り出した彼は目を伏せ、
 「鳴くのを止めると殺されるみたいに」
 そう呟くと、両腕を俺の背中にだるそうに廻して。
 「カカシ先生?」
 「すみません、ヘンなこと言って・・・動いて、先生」
 覆い被さっている俺の胸に擦り寄るように首を伸ばし、彼は目を瞑って言った。
 「動いて下さい、イルカ先生・・・」

 

 

 夏休みとは名ばかりで、野外実習や水練、夜間訓練の予定が詰まっているアカデミーの夏だが、それでも授業がある間よりははるかに時間はあった。それは生徒達だけではなく、教師も同じ。自身の鍛錬や調べ物も出来るし、部屋の大掃除も出来る。斡旋所に届を出しておいて手頃な任務を紹介してもらって小金を稼ぐのもいいだろう。時間や体の余裕があれば受け持ちの子供達を連れて山歩きや花火の製作実習もした。いつもそんな風に過ごしていた。
 だが今年の夏は違っていた。
 書類を纏め、千枚通しを探した。
 今年の夏は何もしていなかった。
 千枚通しは俺の引出しには見つからなかった。隣の席の先生に貸しっ放しだったのを思い出し、筆立てを覗かせてもらう。
 今年の夏は何もしていなかった。
 唯、彼と抱き合う、それ以外には何も。

 

 

 イルカ先生恋人はいないんですかと聞かれ、ええと笑いながら答えた。俺のこういう反応にもう少し見栄を張れと呆れる友人もいたが、いないものはいないのだから仕方ない。見栄をはれと言われても。
 そうかあとカカシ先生は笑った。
 じゃあ俺と一緒ですねと。
 小さな飲み屋だった。混み合った店内は騒がしかったが、隅で並んで飲んでいる分には会話に困ることもなかった。仕事の後、こんな風に誘い合うことが珍しくなくなってきた頃。彼はそろそろ俺にも見慣れてきたその白い顔を晒し、楽しそうに酒を飲んでいた。
 「残念ですね」
 「はあ、どういった訳か、とんとご縁がありませんで。職場の所為ってわけでもないんでしょうが」
 「いえ、そうじゃなくて」
 可笑しそうにカカシ先生は言った。
 「アナタみたいな人を恋人にしていない女性達が残念ですねって思ったんですよ、オレ」
 「は?」
 どういう意味ですかと聞き返しても彼は笑うだけで教えてくれなかった。
 それから暫く経ってから、彼は俺の「恋人」になった。

 

 

 傷だらけの身体はいつもすぐに熱くなった。
 彼が慣れていたのかどうかは知らない。
 俺には比較になるような身体は他になかったし、問い質すことではなかったから。
 額当ての下には大きな傷があった。手甲の下にも貫通したと分かるような傷がいくつもあった。彼の身体は知れば知るほど、傷や火傷を隠す為に服を着ているような気がした。実際それほど派手なわけではなく、この里で忍者を生業としている男なら大抵はこれくらいの身体をしていたのだが。
 にもかかわらず、臥所の中で俺は彼を殊更傷だらけのように感じていた。女性の身体しか知らなかったからだろうか。比較をしていたわけではなかったのだけれども。
 彼は俺に何も要求しなかった。
 ・・・別に俺とこういうことになったからと言って、金品を求められるとかそんな風に思っていたわけじゃない。だが理由はあるのかと思っていた。
 けれど彼は俺になにも求めなかった。言葉も、約束も。そうして彼自身も俺に何も言わなかった。
 笑うようにくちづけをして目を伏せながら身体を開いた。
 何度も、何度も。

 

 

 書類を綴じ終わると大きく伸びをした。午前中から座りっ放しで書類にかかっていたので椅子の上に随分と汗をかいていた。代謝がいいのはよいことなのだろうが、立ち上がれば忍袴の裏側が冷えて気持ちが悪い。
 ひとっ風呂あびてえなあと思う。
 帰りに銭湯によろうか。
 不図そんなことを考えた俺を笑うように向日葵は強い日差しの中ぴんしゃんと立っている。

 

 

 アナタと寝るのはオレが好きだからですよ。
 そう彼は言った。
 裸のままの俺の前で身繕いする彼の言葉の意味は俺にも正確に伝わった。
 好きなのは『アナタ』ではなく『寝るの』。
 彼が軽い調子で告げようとしたその言葉は、けれど不貞の告白のように響いて俺の胸に横たわった。
 ご迷惑じゃなければいいんですけれど。
 だが、そうのんびりと続けられた言葉は急いでつけたされたように俺には聞こえて。
 迷惑じゃありませんよと答えたのは本当だった。けれど、それはよかった、そう笑って面布を上げる彼の顔がまともに見られなかったのも本当だ。
 だって俺は彼を愛していたわけではなかったから。
 言葉を欲しがらない彼の態度は俺にとても都合がよかった。
 しがらみも面倒もいらないその身体と同じように都合がよかった。
 とても。
 俺に罪悪感を抱かせるほどに、とても。

 

 

 神様なんていないと彼は荒い息の下で言った。
 月の無い晩だった。酒の入った帰り道、犬のように路地裏で抱き合った。
 見慣れた額当てをしたままの彼は、何故だかその特異な左目をさらした床の中よりも「写輪眼のカカシ」と抱き合っているという気持ちを強くした。格上の元暗部の忍者。
 半端に乱された格好で俺に足を持ち上げられながら、彼はうなされたように早口で言った。
 神様なんていやしないと。
 ろくな返事も返せない俺に構わず、あらぬ方を見つめたまま彼は言った。
 俺は祈ったんです。
 本当に、心の底から。
 けれど。
 がくんと彼の頭が揺れ、俺は黙ってと小さく言った。舌を噛みますと。その時の俺はひどく乱暴で、けれど彼もそれを望んでいるようだった。いいから続けて、と低い声が聞こえた。
 助けてほしくて、救ってほしくて、本当に心の底から祈って、でも。
 助けはなかった。
 救いもなかった。
 俺は自分でどうにかするしかないと知った。
 だから。
 彼は小さく声をあげてその背を反らした。
 イルカせんせい。
 荒い息で彼が言う。
 俺はその時知りました。
 神様なんていないんです。
 あるのは信仰という名のまじないと木石で作られたありがたい偶像だけ。
 彼の顔は見えなかった。
 唯、彼の身体がひどく痙攣するように揺れたのを覚えている。

 

 

 先生見て見てと差し出された虫篭には大きな甲虫が入っていた。
 「凄えな、お前が捕まえたのか?」
 「うん、今朝!先生に教わったとおり砂糖水を木に塗っておいたんだ」
 「先生、俺のも見てよ!」
 「お、こっちも立派だな」
 帰り道で偶然会った生徒達はきらきらした目で手に入れたばかりの宝物を見せてくれた。日焼けした屈託のない笑顔。だがもうクナイの握り方は知っている。
 「ちゃんと世話してやれよ」
 そう言えば得意そうに当たり前じゃんと返された。
 手を振って子供と分かれて歩き出せば、また蝉の大合唱。
 まだ夕暮れには随分と時間がある。噴き出す汗を手で拭い、俺はとろとろと歩き出した。
 閉めっ放しの部屋は蒸し風呂のようだろうと思えばうんざりしたが、寄るところも思いつかない俺の足は真っ直ぐ自宅へ向かっている。
 夕飯はなににしようとぼんやり考えて。
 なんで蝉って鳴くんでしょうね。
 不意にそんな言葉をまた思い出した。
 あんなに必死に。まるで・・・。
 鳴くのを止めると殺されるみたいに。
 「ああ、なんでだろうなあ・・・」
 みーん、みーんと蝉は鳴く。

 

 

 眠る時に丸まるのは彼のクセのようだった。
 狭い臥所では共に眠ればどうしても手足が当たる。けれど背中を丸める彼の身体は自然俺から離れる形になった。寄り添って眠っても目覚めれば彼は必ず俺との間にその手や足を入れて距離を作っていた。側にいるのは背中を向けている時だけだった。丸めた背中だけを押し付け顔も見えない。決して意識しているのではないだろうそのことが俺にはひどく面白くなかった。夜中に目覚めた時は特にそうだった。腹立ちのあまり寝ている彼にひどいことをしたこともある。
 礼儀知らずだとか、そんな風に思った。
 けれど俺の中から、愛してもいない相手とこんなことをするのはどうなんだという声がした。

 

 

 彼はいつも笑っていた。
 それは彼が嘘吐きだからということはそれほど時間を置かずに俺にも分かった。
 俺の前でも彼はよく笑った。
 笑わないのは臥所の中でだけ。
 目を伏せ。
 ぼんやりとあらぬ方を見て。
 固く目を瞑って。
 話すことは俺には答えられないことばかり。
 いない神様や鳴く蝉や死んでしまった人のこと。
 垂れ流すように話されるそれは俺に聞かせる為に話しているんじゃないんだろうなと思えた。それならば拒絶と一緒だ。
 けれど俺を抱きしめる腕はひどく優しかった。
 暑いな、と俺は思った。
 蝉の声は少なくなった。大通りに出たからだ。人が多く、木が減った。それでも壁や電柱にしがみついて鳴くやつがいるので全く聞こえなくはならない。
 彼はどうして蝉なんか気にしたんだろう。単なる思い付きだったのか。
 虚ろな目で空を見上げて、蝉が、と言った時の彼を思い出す。

 

 

 愛していなくても。
 約束をして別れる相手がいるのは幸せなことだと知った。
 一人の夜に一緒にいてくれる人がいるのは嬉しいと思った。
 朝飯の手間が倍かかるのは気恥ずかしいけれどなんとなくいいと感じた。
 それは皆彼が教えてくれた気持ちではなかったか。
 俺は歩を止めた。

 

 

 懸命に呼吸を整えながら、俺の腕の中では大丈夫と平気ですしか言わない彼を思う。
 嘘吐きだ、やっぱり。
 けれどそんな彼の嘘を愛しく思う自分がいた。
 ひどく驚きながら、随分前から納得していたような気もした。
 汗は装束の下から噴き出していて俺は乱暴に胴衣を擦った。

 

 

 新刊の棚から顔を上げたカカシ先生がおやというように俺を見た。またあの本の続きを買いに来ていたのだろうか。彼より先に気付いたことが俺を小さく笑わせる。
 俺の名を呼び本屋の店先からこちらへ向かってくる彼を見ながら、俺は唐突に賭けをしよう、と思った。
 今夜、俺を好きですかと聞いてみよう。
 彼が俺を好きだと言わなかったら。
 誤魔化したり、話を逸らしたら。
 彼を知ろうと思った。
 何も知らず抱き合うことを始めたこの人のことを知ろうと思った。
 俺が何も知らないこの人のことを。
 もしかしたら。
 もしかしたら愛せるのかもしれない。この人のことを。
 嘘ばかりの、神様を信じない人。
 けれどそれなら俺も似たり寄ったりだ。

 

 

 蝉がまた鳴き出した。
 うだるような暑さの中、俺の背中を汗がゆっくり流れた。額当ての中もじっとりと暑い。
 蝉は、どうして鳴くのだろう?
 俺にはその答えが分かったような気がした。
 「イルカ先生、こんにちは。お仕事の帰りですか?」
 彼はいつもの通りの笑顔だった。
 だから俺も笑って言った。
 「ええ。こんにちは、カカシ先生」