身体の内側で何かが蠢くその感触はキライじゃなかった。
 自分の身体がまるっきりの「道具」になったような気がしたから。
 「道具」はいい。目的がある。使用する為の目的がある。
 からっぽの、何もない俺よりいい。
 だから俺は「道具」として扱われるこの時間が好きだった。
 だから「道具」としての自分を愛するのと等しく、「道具」としての時間を与えてくれるこの男を愛した。

 

 

 五つで下忍、忍びになって人間辞めた。
 六つで中忍、人を殺して見返りを貰った。
 十一で上忍、後戻りなんて考えもしなくなった。
 忍びの任務といってもピンからキリまである。俺が経験したのはキチガイまでの最短コースだと、奴は言った。元暗部のおまけ付き。 俺は壁に凭れかかって、目の前に横になっている奴の裸の背中を眺めていた。
 広い、けれど意外なほど滑らかな、綺麗な背中だった。
 以前そう口に出して言ってやったら、奴はにやりと笑って、
 「敵に後ろは見せねえからよ」
 そう、言いやがった。
 阿呆か。
 忍者がナニ言ってやがる。侍じゃあるまいし。
 それよりなにより。
 そんな性分じゃないクセに。
 目の前のこの男は恐ろしく柔軟な思考の持ち主で、つまらない見栄やプライドなどかなぐり捨てられる強さを持っていることを俺は知っている。不利になればいつでも直ぐに退いた。だから奴の任務数は里では群を抜いていた。深手を負うことが極端に少なく、その為任務を休むことも極端に少なかったからだ。
 命根性が汚ねえからよ、俺は。
 そう言って笑う奴は、地返しと呼ばれていた。
 必ず生きて戻ってきたからだ。
 どうしても必要な情報を手に戻り、死なせるわけにはいかない仲間を連れて戻り、そういうことを繰り返し、奴は地返しと呼ばれるようになった。
 地返しのアスマ。
 そう奴は呼ばれていた。
 多過ぎる任務数は奴に経験を与え、老練させた。したたかな男だった。
 傷ひとつない奴の背中はその豪放な外見に似合わぬ慎重さの現れだった。背後に気を許さずに過してきた証拠だった。
 「オイ、脚閉じろよ」
 不意に、奴が声をかけて来やがった。
 「人の鼻先になんてもん広げてんだよ」
 脚と脚の間がぬるついて不快だった。だから心持ち脚を広げていたのだが、それが奴の気に障ったらしい。
 妙なところが神経質な男で、杯の回し飲みも嫌がる。毒殺を恐れてのことかと思っていたら、違うらしい。他人の手前、気にしていないように振舞うが、その実こっそりと杯の縁を拭いているのに俺は気付いていた。
 だから。
 「出て来るんだよ」
 そう言ってやった。
 誰の所為だ、クマ。
 奴はイヤそうに鼻を鳴らすとそれ以上はなにも言わず、煙草に火をつけた。
 だから俺は笑ってやった。
 あいつがキチガイだというあの笑い方で。

 

 

 人間はみんな血のつまったズタ袋だ。
 薄い皮の中に暖かくて生臭い血がぎちぎちにつまったズタ袋だ。
 だからちょっと切ったり突いたりすれば血が噴き出す。
 ズタ袋。
 けれどズタ袋にはズタ袋なりに夢だの希望だのがあったりして、いつかはそれが叶うんじゃないかと思っていたりする。
 それは悪いことじゃないと思う。
 嘲るつもりもない。むしろ、空っぽの俺からすれば、羨ましいくらいだった。
 だが、それは脆い。
 ズタ袋から血が流れれば、棄てざるをえない望みだった。
 人間なんてそんなものだ。
 それが俺が忍者になって知ったことだった。

 

 

 鼻から息がもれる。
 口からは声が漏れる。
 それはひっきりなしで、俺は自分が馬鹿になったような気がする。
 後ろから、下から動かされて、少し前のめりになって、俺は小さくうめいた。
 奴の胸と俺の背中の間で、着込んだままの忍び装束が擦れて音を立てていた。
 支えきれずに左手が滑って、バランスを崩しかかった俺の身体を奴の大きな手が支えた。咄嗟に、妙な具合に力のこもった俺に、奴の呼吸が乱れる。それを耳元で聞いて俺は声を立てずに笑った。気付いた奴が不快げに言う。
 「笑うな」
 下ッ腹に力はいるんだからよ、と言いながら、袷を割って手が入ってきた。最近の奴は俺の胸をいじくるのが楽しいらしい。
 ここは斡旋所の地下の便所で、今、俺は洗面台に手をついて鼻を鳴らしていた。滅多に人が来ないとはいえ、個室の中ではないから間違って戸を開けちまった奴はさだめし嫌な思いをする羽目になるだろう。
 俺の目の前には湿気で薄く黴の生えた壁がある。鏡はない。割れたままにされているようだった。鏡が留められていた螺子の跡がべったりと錆びをつけて残っている。
 惜しいな、と俺は揺すられながら思った。
 今、この顔を見てみたいと思ったのに。
 さぞかし馬鹿面だろうに。
 そして俺は、もっともっと自分を嫌いになれるんだろうに。

 

 

 「カカシ」
 奴に背を向けたまま、着衣の乱れを直していると声を掛けられた。
 いいだけあちこちひんむかれた俺と違って前をはだけただけだった奴が、煙草に火を点ける気配がした。ニコチン中毒め。頭やられちまえ。
 「おまえ、オトコつくれよ」
 オトコ、は俺の頭の中で情人、に変換された。
 最近奴がよく口にする言葉だった。
 「なに?オトコ?どうしてオンナじゃないんだよ。当然のようにヒトをホモ扱いってか?」
 振り向かずに笑って言ってやると、
 「・・・オンナでもいいよ。でもオンナは気をつけて選べよ、壊れないようなやつ」
 それを聞いて、俺は唐突に思い出したことがあった。
 おまえは、壊れねえよな。
 「・・・・・・」
 アスマはどちらかというと、太目の女が好きだった。色の白い、胸の豊かなよく笑う女を好んだ。今までに付き合った女達は多少の差はあっても、そんなタイプだった。
 それが。
 アスマと付き合うと皆、みるみるうちに痩せてゆく。そうして泣きながら奴の元を去っていくのだ。
 奴はそんな彼女達を引き止めない。唯黙って煙草を吸うだけだった。
 地返し、と呼ばれることに奴も代価を払っていたのだろうか。
 後ろから抱きしめられていた時だった。ちょうど先刻のように。
 「お前は、壊れねえよな」
 そう、言われた。
 直ぐ耳元で、俺の中に深くその身を埋めたまま、ため息を吐くように息だけの声で奴が言った。
 「お前は大丈夫だよな。・・・それ以上壊れねえよな・・・」
 俺は答えなかった。
 魘されるように繰り返す奴の様子に、答えない方がよいと思ったのだ。
 俺は聞こえていないふりで喘いだ。

 

 

 奴と初めてこういうことをしたのは確か十四の時だった。
 笑っちゃうような話だったけど、俺はそれまで奴のことを豪胆な男だと思っていた。でかいナリと大きな声の所為だったかもしれない。
 俺と奴とあと何人か。それは全く用心棒のような任務だった。攻めてくる敵を叩きのめして追い返すのが主な仕事で。
 うっとおしく性懲りもなく、馬鹿のひとつ覚えのように攻めてくる相手を要領よく追い返す(殺すなと言われていたのだ。理由は後で知った)仕事にも飽きが来た頃だった。
 散漫になった俺の油断だった。
 左の肘を斬られた。
 刃物自体の切れ味と咄嗟に身体を引いたのとで、深い傷ではなかったが、血が出た。肘を押さえて血止めを、と思った時、腕を掴まれた。それが奴だった。そのまま口を寄せると、腕に吸い付いた。
 「・・・おい」
 餓鬼の俺は酷く腹を立てていた。自分のポカで負った傷だというのが面白くなかった。見られていたのだという思いが更に俺の態度を悪くさせた。
 「勝手に人の腕舐めんな」
 それでも奴は無言で、吸い上げた血をぺっと地面に吐いた。そして何度かそれを繰り返した。
 「おい」
 「・・・毒が入ってるかもしれねえぞ」
 「はあ?」
 面倒臭そうな喋り方が話の内容に合っていなくて、俺は聞き返した。
 「この間から何人か、刃物に毒を塗り始めた奴がいるらしい。向こうも必死らしいな」
 話の内容と合わない喋り方のままでそんなことを言った。腹を立てていた俺は聞こえないふりをした。
 ところが。
 奴が言ったことは正しかった。
 夜半に目が覚めた俺はどうしようもない体の熱さに舌打ちした。頭がぐるぐるする。身体がだるい。熱がある、と思った。この症状は、おそらくウダチノカズラ。
 やばい、と力の入らない体で立ち上がり、寝所に与えられていた部屋を出た。寝ている仲間達を起こさないようにして。
 ふらふらと近くの川に出て、倒れこむようにその辺に蹲った。夕方から降った雨の所為でぬかるんだ地面が装束を汚したが、それどころではなかった。頭がぐらぐらする。気持ちが悪い。
 俺は頭ごと川に突っ込んで水を飲んだ。そのまま沈みそうになるのを必死で起き上がると水が跳ね上がり、俺はひどく濡れてしまった。もう腕に力も入らず、ずるずるとそのまま突っ伏す。
 多分、間違いない。ウダチノカズラだ。近くに群生していたなと思い出す。
 これにやられるとまず発熱する。そして吐き気。それからだんだんと四肢の自由が奪われていく。その間に脳をやられて幻覚を見る。
 やっかいだ、と俺は思った。
 俺が斬られてから四時間は経っていた。この時までに幻覚の症状が出てはいなかったので死にはしないだろうと思う。
 すると、俺はあのクマに助けられたってわけか?
 こんな状況にも拘らず俺はひどく腹を立てた。
 まだ餓鬼だった俺は誰かに助けられるという事がひどく面白くなかった。毒にやられて仲間に助けを求めなかった理由のひとつはそれだ。早いうちに上忍になった俺は若すぎる所為でひどく軽んじられて来た。いっぱしの口をきくなと。それは俺をひねくれさせた(今になって考えてみれば、そんな事にいちいち傷付いたり不貞腐れること自体が餓鬼の証拠だったと思うが)。死ぬほどではないのだから、毒が抜けるまで一人で凌げばいいと思った。
 それに。
 俺は不意に腹の下ににぶい痛みを覚えた。
 来た、と熱の為に朦朧としてきた頭で思った。
 手で触れて確かめてみると、案の定だった。胸に手を当てるとつきのものがきた女のようにしこっていた。
 ああ、ちくしょう。
 ウダチノカズラ。あの可憐な薄紫の花の。
 俺はのめった。ぐらぐらした。吐きそうだ。気持ちが悪い。
 発情している。
 頭がぐらぐらだ。
 俺はげえと吐いた。吐寫物は音を立てて川に落ちた。跳ね返りが顔に当たった。
 発情している。
 これが、俺が部屋を出て来た最大の理由だった。
 ウダチノカズラの最大の特徴はその強烈な幻覚作用だ。毒の扱いに長けた者なら、上手く分量を加減して幻覚剤や自白剤も作れる。だが。
 ちくしょう、どシロウトが、と俺はののしった。ウダチノカズラが毒だというのは割とよく知られている。だから刃物に塗ったのだろうが、この植物の根から採れる毒物の最も強力な効用は。
 強烈な催淫効果だった。
 俺はまた吐いた。頭がぐらぐらからがんがんに変わり始めた。
 どシロウトが。普通はこんなもん使いやしない。即効性じゃないし、死ぬまでに幻覚やらなんだで大騒ぎになる。斬り合いで敵を殺す為ならもっとマシな毒使え馬鹿野郎。
 「おい」
 不意に掛けられた声にぎょっとして振り向くと(といっても、実際にはのろのろと顔をあげただけだったが)クマがいた。
 「カカシ」
 確認するように声を掛けてきた。煙草を口に咥えていたが、火は点いていない。闇の中で目印になるのを恐れてか。
 「・・・やっぱ、毒か」
 川の辺、ずぶ濡れで泥にまみれた俺を見下ろして、何の感情もなく低く呟いた。人差し指と親指で煙草を挟むとなにかひどく珍しい動物でも見るような目で俺を見やがった。
 「・・・・・・」
 俺も奴も訓練を受けた忍びだったから夜目も利いたが、周りはそれこそ鼻をつままれても、という状態だった。遠くで鳥が品のない声でぎゃあと鳴いた。
 俺は奴を思い切り睨みつけた。今、寄られては困る。以前見たことのある毒にやられた仲間の醜態が頭を過ぎった。恥を晒して後々まで嘲りのタネを与えるのは御免だった。
 だが奴は気にした様子もなく、大股で近付いて来ると俺の肩に足を引っ掛けてころりとひっくり返しやがった。カメでも転がすように。
 「何」
 しやがる、と声をあげるより先に額当てをむしられた。愕然としている間に面布を咽喉まで引き摺り下された。
 「!」
 大きな手が両目と額を押し付けられ、何を、と叫ぼうとした時奴がぼそりと言った。
 「熱はあるな」
 その言葉に、奴の行為が熱を測る為だったのだとやっと気付いた。
 奴はそのまま俺の顎を掴むと無理に口を開けさせ覗き込んだ。この暗さでは舌は見えないだろうから匂いをかいだらしい。そのまま口に指を突っ込んだあと、目を診てから無造作に左腕を掴んだ。
 「出血も皮膚のただれも浮腫もなしか。硬直もなさそうだな。痺れはあるか?めまいや頭痛は?吐き気は?痙攣は?」
 矢継ぎ早に聞かれたが、只でさえそれどころではない状態のところに、まるで物のような扱いを受けた俺は返事してやらなかった。腹を立てていたのだ。
 だがクマは気にした様子もなく診断を続けた。
 「流涙、流涎、発汗の増加に動悸、か。それに・・・」
 クマのくせに医者のような口を利きやがると内心舌を出していた俺は硬直した。奴が、奴がいきなり掴みやがったのだ、俺の。
 「なにしやが・・・!」
 「これ、か」
 得心がいった、というように顎を引くと、奴は低い声を更に落として、
 「ウダチノカズラだな?」
 と聞いてきた。
 「そうだな?」
 「・・・・・・」
 俺の沈黙に確信を得たらしく、アスマはそうかと呟いた。
 「・・・その様子なら幻覚は出てないんだな?良かったな、死なずにすむぜ、お前」
 「・・・俺のお陰だとか言いたいわけ?」
 死なずにすむと言った時の言い方がカンに障った。当てが外れたろうがと言わんばかりの。
 「それより離せよ。いつまでもタダで触ってんなよ」
 其処に手を置いたままの奴に噛み付いた。息が乱れ初めてくるのを表に出さないように必死になりながら。ああ畜生、この感覚。ウダチノカズラ。
 「・・・・・・」
 奴は一瞬奇妙な目で俺を見た。
 「離せったら・・・」
 最後まで言えなかった。
 奴の大きな手がいきなり俺の口を塞いだ。そのまま圧し掛かられる。
 「・・・!!」
 親指と人差し指で頬骨を押さえられ小指と薬指で顎を固められた。これでもう口は開かない。思いもかけない相手に思いもかけないことをされて俺は動転した。
 左手で俺の口を押さえ、右手で急所を握りこんだまま、奴は身体を揺するようにして俺の脚の間に入り込んだ。ぬかるみに押し付けられ、二人分の体重で俺の体が泥の中にめり込む。
 「声を出すなよ」
 感情のこもらない、どうでもいいといった感じの声だった。奴の、いつもの声だった。
 「誰かが聞くかもしれねえ。お前がどうかは知らねえが」
 不意に右手に力が込められ、俺は塞がれた口のままで叫んだ。その隙に奴は右手を離すと隠しから素早く何かを取り出した。
 「俺は一対多数ってのは落ち着かなくてな。・・・繊細なもんでよ」
 くちゃり、としめった音がして左眼が塞がれた。
 トリモチだった。
 「いい子にしてな。後で洗ってやるから」
 そう言うと奴は無造作に俺の上着を引き剥がし始めた。
 「・・・!!」
 力の入らない両手で俺は抵抗した。腕っ節では悔しいが奴の方が上だ。爪を立てたが奴は煩そうに小さく舌打ちしただけだった。
 川の流れる音と草の揺れる音。
 熱と痛みでがんがんする頭。
 星が出ていた。里とは違う星座の位置。
 俺はひどく驚いていた。
 こいつはこんなことが出来る奴だったのか。
 それは怒りでも侮蔑でもなく、ただの現実に対する認識だった。不思議なほど空っぽな感情で俺は驚いていた。
 こいつはこんなことが出来る奴だったのか。
 不意になにかがせり上がってきて俺は吐いた。
 仰向けのままげえげえと続けて吐いた。気管に吐寫物がつまり、俺は咽た。
 「ぐっ・・・げ・・・」
 奴が無造作に指を突っ込んできた。吐寫物だらけの咽喉の中をかき回し気道を確保する。既に俺がその指を噛む気力も無くしていたのが分かったのか、奴は指をそのままにした。お陰で俺は呼吸の度に間抜な声を洩らす羽目になってしまった。
 またあの品のない鳥の声が聞こえたような気がした。
 塞がれた左眼は強張って、開けようとすると引き攣れて痛んだ。
 俺を続けて二回吐情させてからアスマは一言だけ、声を掛けてきた。
 辛いか、と。
 ぬかるみから染み出した泥水の所為で俺の体はぐちゃぐちゃだった。
 奴の大きな手が俺の内股を押した。
 睫が、と俺は唐突に思った。
 抜けるな。
 トリモチを洗い落としても。
 間抜なツラにならなきゃいいけど。
 ああ、大丈夫か。
 額当てして、面布つけて。
 脚が、ひきつった。
 背中が撓って腹がせり上がった。
 ウダチノカズラだ、と俺は思った。
 あの、小さな、可憐な薄紫の。
 あの、小さな、花。
 奴が耳元で息を吐いた。
 星が、見えた。暗い空に。

 

 

 毒がまわった俺の身体をいいように扱うのは容易いことだったろう。
 熱のある、力の抜けた、泥と吐瀉物に塗れた俺をアスマは揺すり続けた。
 俺はといえば、空の星を見ながらぐちゃぐちゃいう泥の音を聞きながらぼうっとしていた。熱と痛みがまともな思考を俺から奪っていたのは確実だったが、それだけじゃなかった。
 ふと気がつけば脚の間から奇妙に湿った音がしていた。それは外の泥の音ではなく。
 内側からしていた。
 切れたか、裂けたかしたんだ。
 俺は思った。
 こいつので、俺の。
 そう考えた途端。
 俺は奴にしがみついていた。力のこもらない、泥だらけの腕で奴の上着にシワがよるほどしがみついた。
 それは強烈な快感だった。
 なんと表現すればよいのか。
 いきなりしがみつかれて驚いたらしいアスマが俺の顔を見た。
 至近距離で見た奴の顔は、どこかの寺で見た覚えのあるなんとかいう仏像と、里にいた頃アカデミーの書庫で見たことのある鬼だか業魔だか、その両方に似て見えた。俺はそれを馬鹿面と判じた。
 俺は声をあげた。なんと言ったかは覚えていない。唯、一度声を出すと止まらなくなった。俺は奴にしがみつくと声をあげ続けた。
 気持ちよかった。
 毒にやられた頭と身体で。
 覚えているのはそれだけだった。
 川と草と泥の音。
 鳥の、声。
 そして、空には星。

 

 

 「おまえ、オトコつくれよ」
 飽きもせず、奴は繰り返した。
 俺は唐突に自分がひどくどうでもいいもののような気がしてきた。
 ここは便所で、俺はもしかしたらこのクマに縁切りを言い渡されているんだろうか。
 不意に、俺は笑い出しそうになった。
 こんな場所で別れ話かよ、恋人でもない奴と。
 だが、アスマは至って真面目な声で繰り返す。
 「オトコつくれよ、カカシ」
 どこか倦み疲れたようなその表情が俺の笑いを止めた。
 「・・・何で?」
 聞くとアスマは煙草を口から外して壁にぐいと押し付けた。
 「お前はシアワセにならなくちゃいけねーよ、カカシ」
 あいつの分もな、と呟くように言われた。
 「・・・お前は?」
 ついと、言葉が口をついて出た。言われた奴より、言った俺の方が驚いた。
 アスマは小さく笑うと、言った。
 「俺じゃダメだよ」
 「どうして・・・?」
 アスマはその薄い青の瞳で、俺を正面から見て言った。
 「俺はお前に勃起するけど欲情はしねえ」
 不意に。
 俺は自分の身体を唐突に、強烈に意識した。
 今、目の前に居るこの男の。
 その大きな手や、意外に繊細に動く指や、優しい髭面の中の厚かましい唇が触れていないところなど、おそらく欠片もない、この身体。
 この男は俺を愛してはいない。俺がこの男を愛してなどいないように。
 それでも。
 俺とこの男の間にあったものがあった。
 だが、俺はそれをなんと呼べばいいのか分からなかった。
 もしかしたら名前などなかったのかもしれない。
 それでも。
 ズタ袋にも感情はある。
 例え、それが脆いものでも。
 ズタ袋から血が流れれば、棄てざるをえないものであったとしても。

 

 

 「オトコつくれよ、カカシ。お前に壊されねえような、ちゃあんとしたヤツを選んでな」