あの時、サクラ、と呼ばれて振り返ったら、先生がいた。
 アカデミーの玄関口で、容赦なく降っている雨を見ながら一人で途方に暮れていた私にイルカ先生が声をかけてくれたの。
 なんだお前、傘忘れちまったのか、そう言ってイルカ先生は笑った。私は恥かしくてつんけんしてしまった。天気予測は年少組で習う。そんな忍術ともいえない初歩の初歩を外したって思われそうで、こんな姿を見られるのが私は厭だったの。それも、受け持ちのあった先生に、なんて。
 「ちょうどいいや、送ってやるよ。入りな」
 「・・・結構です」
 「何でだ?お前のトコはご両親共働きだから迎えに来て貰えないだろう?暫く止まねえぞ?」
 「結構です」
 イルカ先生はちょっと困ったような顔をしていたけれども。
 「よし」
 って急に大きな声を出すと、ぐいって、私に傘を押し付けた。
 「せ、先生?何・・・」
 「貸してやるよ。それ差して帰れ。職員室の傘立てに入れといてくれればいいから」
 無理に受け取らされた私にいらないと言う間を与えないようにイルカ先生はさっさと歩き出してしまった。職員室の方へ。慌てて私は叫んだ。
 「いいってば!」
 「はっは、遠慮すんな」
 「先生はどうするのよ?」
 イルカ先生は立ち止まって振り向いた。へえ、というような顔をした後、ゆっくりと笑って。
 「心配してくれるのか?優しいな、サクラ」
 「な・・・!」
 「安心しろ。先生は置き傘くらいちゃんと用意してあるんだぞ」
 そう言って、もう一度笑うと。
 「カッコ悪い傘ですまんなー、サクラ」
 廊下を曲がって、先生の姿は見えなくなった。
 「サクラ?」
 カカシ先生に呼ばれて慌てて顔をあげると、先生が二人揃って私の顔を覗き込んでいて、ちょっとびっくりした。
 「な、なに?」
 「そりゃこっちの科白だよ?ぽーっとして」
 やっぱりこのクマになんかされたのか、とカカシ先生が言ってまたアスマ先生に殴られそうになる。
 「ち、違うの」
 慌てて私はそう言って、それからもう一度、こっそりと傘を見た。
 間違いない。
 大きな古い傘。傷だらけの柄の。
 イルカ先生って物持ちいいんだわ。
 「オイ」
 急にアスマ先生が大きな声を出して、私とカカシ先生は驚いて顔をあげた。
 「板金屋、行かなくていいのかよ?」
 「あ」
 「橋向こうっていったら久作爺さんとこだろ。あの飲兵衛、店閉めるとすぐ飲むぞ。この天気じゃ客もねえだろうから早目に閉めるかもしれねえな。さっさと行け。三代目にぶっちめられてえか」
 「くっそ」
 急ぐのがキライなカカシ先生は不服そうに唸ると、もう一度私の方に向いて。
 「ごめん、サクラ。終わったら送ってやるから待ってろ。このクマが妙なことしかけたら大声出すんだぞ。遠慮なくクナイとか刺してもいいから。あ、俺の貸そうか?そうだ、忍犬一匹呼んでおくか?」
 「いいから早く行けってえの!」
 アスマ先生の投げた吸いさしが届くより前にカカシ先生の姿は消えた。先生はどんなに急いでも傘一本あれば雨に濡れないでの移動くらい余裕なんだろうな、跳ね返りもない見事な足運びだし。流石上忍。普段の挙動はめちゃめちゃ怪しいけど。そんなことを考えながらぼんやり雨を見ていると。
 「よう」
 アスマ先生がこっちを見ていた。
 「なんですか?」
 「手巾持ってるか?」
 「え・・・はい、持ってますけど」
 「貸してくれ」
 私は持っていた小さな袋の中から手巾を取り出してアスマ先生に渡してあげた。小さな花の散らしてある薄桃色の布はアスマ先生の大きな手には不似合いで、ちょっとおかしな感じだった。
 「すまねえな。お礼によ」
 「え?」
 「相談のってやろうか」
 「は?」
 「先刻からぼーっとしてる。気鬱の種でもあるんじゃねえかと思ってな」
 あ。
 「あ・・・いやだ、違うんです。そうじゃなくて、ただ、ちょっと思い出したことがあって」
 「思い出した?」
 「え、ええ、そうなんです。つまんないこと・・・つまんないことなんです」
 「・・・・・・嬢ちゃん、サクラか」
 「え?」
 「つまんねえことでお前はそんな顔すんのか」
 「・・・!」
 「餓鬼がいっぱしに気取るな。うざってえ」
 アスマ先生の言い方は乱暴だったけど、何故か私は言われるままに傘の話をしたの。イルカ先生の傘の話。なんでかな、アスマ先生は怖い人で、苦手だなあって思っていたのに。
 「それで?傘借りて帰ったのか」
 「うん。でも・・・」
 「でも?」
 借りた手巾を膝に広げてアスマ先生は燐寸を一本ずつ並べている。乾かしているのかしら?この湿気じゃ無理だと思うけど。
 「イルカ先生次の日お休みだったの・・・風邪ひいちゃったって」
 「は?」
 間の抜けたような声を出してから、ああとアスマ先生は言った。
 「持ってなかったわけかい、置き傘」
 「うん、多分」
 「はっは、格好いいじゃねえか、先生」
 アスマ先生は愉快そうにそう言ったけれど、私はとても笑えなかった。
 「サクラが気にすることじゃねえわな。先生が風邪をひいたのはてめえの鍛錬不足ってやつだ」
 「うん、でも・・・」
 「まだ何かあるのか?」
 「・・・先生、きっと気付いちゃってたんだわ・・・」
 「・・・?」
 私ね、と膝を抱えて私は言った。相談を始めてから、二人とも腰を降ろしている。直接座ると腰が冷えるぞとアスマ先生は胴衣を貸してくれた。お尻に敷いてもいいって言ってくれたけど、流石にそれは出来なくて、肩から羽織らせて貰った。借りておいてなんだけど、臭い。煙草の匂いと、男の人の匂い。
 「私ね、いじめられっこだったの」
 「へえ」
 「今はこんな風にぽんぽんって言えるけれど、小さい頃、アカデミーに入った頃はホントに気が弱くて、うじうじしてて・・・いつも皆の顔色ばっかり窺ってたの。嫌われたくなくて。・・・でも、そういうのって、余計いじめの対象になっちゃうのよね。でこりーんって、いつも・・・」
 「でこりーん?何だそれ」
 気がつけば私はすっかり敬語で話すのを忘れていたけれど、アスマ先生はそんなこと頓着していないみたいだった。聞き慣れない言葉に眉を顰める様子がなんとなく可愛くて、私は小さく笑ってしまった。
 「私のことなの。・・・ほら私、おデコ広いから・・・だからでこりーんって」
 「ああ。成る程な。ははっ、餓鬼は容赦ねえなあ」
 笑われたのに、何でか私は悲しくなかった。代わりになんとなく、いのに貰ったリボンを思い出す。
 「だから、なんだと思うんだけど」
 ぎゅ、って膝を抱えて。
 「私、人に嫌われるのが怖いの。ひとりぼっちが、凄く怖いの」
 声がどうしても小さくなる。震えないようにしなきゃ、と思うんだけれど。
 「だから」
 送ってやるよ。入りな。
 そう言ってくれたイルカ先生の笑顔。
 「だから、私・・・」
 私。
 「イルカ先生と二人で話して、傘になんて入れてもらったら」
 ああ、駄目。
 「仲間外れにされちゃうかもって・・・怖かったの」
 駄目。
 私は膝に突っ伏した。溢れた涙は止まらなかった。鼻水をすすって、えぐえぐと私はしゃくり上げ続けた。
 アスマ先生は何も言わなかった。そのまま黙って煙草を吸って、私を好きに泣かせてくれた。
 心配してくれるのか?優しいな、サクラ。
 安心しろ。先生は置き傘くらいちゃんと用意してあるんだぞ。
 カッコ悪い傘ですまんなー。
 笑っていた、イルカ先生。
 泣くだけ泣いて落ち着いて、私がまた話を続けられそうになった時、アスマ先生はほらよって私の手巾を返してくれた。それをそのまま顔に当てると燐寸の匂いがしたわ。
 「イルカ先生、きっと私のそんな気持ち分ってたんだと思う。だから、置き傘なんて嘘吐いたんだと思う。私が皆に苛められないように」
 いのには悪いかもって思ったけれど、アスマ先生がよく分らないようだったから、兎の巾着の話もしちゃった。アスマ先生は面倒くせえ話だなあと溜息を吐いた。
 「なくて騒ぐんなら解かるがよ。あっても騒ぐのかい」
 大人の男の人の意見よね。私は小さく曖昧に笑った。
 「私、イルカ先生に謝りたかったの」
 だからあの日、アカデミーが終わってから、傘を持って、途中で花も摘んで、連絡簿で調べたイルカ先生のお家へ行った。
 でも。
 どうしても、ドアをノック出来なかった。こんこんって、イルカ先生いますかって。それだけでいいのに。
 私は出来なかった。
 摘んだ花は玄関の横に置いてきたけれど、傘は職員室の傘立てに放り込んで、逃げるように帰った。
 そのままイルカ先生とは話らしい話もせずに卒業した。
 「私ってひどい子よね」
 「そうか?」
 「ひどい子よ」
 「・・・・・・」
 アスマ先生はふっと煙を吐いた。ここにいる間だけでもう何本吸ったのかしら。きっと肺は真っ黒ね。
 「私、イルカ先生に謝るべきかな」
 「そうか?」
 「だってあんなひどいことしたのよ?」
 「・・・謝りたいなら、謝んな。けど、義務でするならお門違いだ」
 え?とアスマ先生を見ると、先生は前を向いたまま、
 「教師ってなそういう仕事だよ。子供に好かれるのも嫌われるのも仕事のうちだ。サクラの『ひどいこと』なんざ給料分に入ってるから心配すんな」
 「でも、だって・・・」
 「それにな、子供は教師や親に反抗するもんだ。仕方ねえんだよ。そうやって皆大人になるんだからな。いっぺんも親や教師に反抗したり批判したりしたことない奴なんざいねえよ。いたとしても、そんなのぁロクなもんにならねえさ」
 「・・・・・・」
 「だから気にすんな。それで大人になって、今度は子供に反抗されたら、長い目で見てやるこった」
 アスマ先生は肩が凝ったというようにぐるりと首を回してから、
 「そういうもんだ。繰り返しだよ」
 そう静かに言ってくれた。
 「・・・いいのかな、それで」
 「いいんじゃねえの」
 「いいのかな、イルカ先生、そんなんで」
 「・・・あのセンセはもう気にしてねえよ、多分な」
 「・・・・・・」
 「勘違いすんな、軽く考えてるってことじゃねえよ。教師は子供のことを考えるけど思いつめはしねえ。それは親の役目だ。・・・俺はそう思うね」
 そう言ってからアスマ先生は伸びをして、
 「イルカ先生は本業がアカデミーだろ。俺らみたいな俄か指導員よりそこいら辺の加減は分かってるだろうさ。プロなんだからな」
 「プロ・・・?」
 「プロの教育者、プロの指導員、でもってプロの忍者だ。・・・そういうことさ」
 「・・・・・・」
 「それでも納得できねえっていうんなら、次に会った時はもう少し優しくしてやんな。イルカ先生にも、他の大人にもな」
 もう少し、優しく。
 出来そうな、気がした。
 少しだけでも、昨日より、少しだけでも。
 「それと」
 アスマ先生は打って変わって、ひどく言いにくそうに、
 「その、なんだ」
 ちらっと、私の方を見ると、
 「俺はサクラはそうひどい子たぁ、思わねえがな」
 って、早口で。
 「・・・え?」
 「だから、その」
 苛々と。
 「本当にひでえ奴は自分のことひでえかなって悩んだりしねえよ。・・・そういうこった!ああ面倒くせえなあ!」
 ・・・もしかして。
 これって。
 私は励まされたのかしら・・・?
 「アスマ先生」
 「だから女餓鬼は面倒だっていうんだ、ったくよお」
 「女・・・先生ひっどおい!」
 「本当のことだろうがよ!」
 私は笑った。アスマ先生も笑った。
 少し経ってやっぱり濡れずに戻って来たカカシ先生は、私の目が赤いとか煙草の臭いがするとか言ってアスマ先生を犯罪者呼ばわりした後、約束通り私を家まで送ってくれた。
 家の前でお礼を言ってから、雨の中を帰っていくカカシ先生の後姿を見送ると、濡れていなかったその肩が私を傘に入れた分だけ濡れていた。
 そして、置去りにされたアスマ先生のところにその後カカシ先生が戻ったのかどうか、私には分らなかった。

 

 

 「よお」
 斡旋所の入り口、頭の上から降ってきた声と共に、いきなりお尻を撫でられた。きゃあっと叫んで振り返ると。
 「アスマ先生?!」
 「今から任務か?」
 アスマ先生はまたあの男らしい笑い方でそう聞いてきて。
 「サッ、サクラちゃんのお尻触ったなあ!」
 「ちょっと止めてよね。おマエの世間の垢にまみれた手でうちのコ達触んなよ。クマが伝染るでしょ」
 ナルトが喚いて、カカシ先生がイヤそうに言ってくれた。サスケ君は、と思ってちらっと見てみると苦虫を噛み潰したような顔。ああ、でもこれってどうせ単に任務に行くのが遅れるからなんだろうけど。ちぇっ。
 「サクラ、菓子は好きか?」
 「え、は、はい」
 「じゃもっとカロリーの高いもん食ってもうちっと触り甲斐のある尻になっとけよ」
 そう言って大声でアスマ先生は笑った。
 「先生、サクラのお尻なんて趣味わるうい」
 アスマ先生の後ろからいのが言った。なんだとお、いのぶたっ!
 「いいじゃねえか。将来里にいいオンナが増えりゃ楽しみも増すってもんだ」
 「だからー、サクラみたいなデコのどこがいいオンナになるっていうのよー」
 「あら、アンタよりは可能性高いわよーだ!」
 「なんですってー」
 「こら、そこ!」
 イルカ先生が受付の中から立ち上がって叫んでいた。今日は先生が受付当番に入っている日なのね。
 そういえば。
 カカシ先生はイルカ先生に傘ちゃんと返したのかしら。
 「入り口で騒ぐな!先生方も困りますよ!」
 怒られちゃった〜とカカシ先生が恨めしそうにアスマ先生を睨んだけれど、アスマ先生はどこ吹く風で。
 「将来楽しみってことなら両方一緒だな。悪趣味でもなんでもいいからよ、がっかりさせねえよう頑張ってくれや」
 そう言ってまた大きな声で笑った。
 私はなぜだか少し赤くなりながら(ちらっと見てみると、いのも赤くなっていた)アスマ先生の髭だらけの男らしい笑顔を見ていた。
 その目はやっぱり綺麗な朱い色だった。