そのまま矢のように走り通し、途中で詰め所の前の縁台で将棋をさしているアスマを見つけ、そのまま拉致って彼の家にガイのおまけ付きで転がり込んだと言う訳だった。どっとはらい。
背中を丸めるカカシから少し離れたところに乱暴に脱いで丸めた浴衣が転がっていた。返り血付きのそれは、元々の白と墨色に加え付いたばかりの赤の模様が金魚か鯉を連想させる。
ああ、とカカシはまた悲しくなった。
似合うって言ってくれたのになあ。カカシ先生浴衣お似合いですねって、あんな可愛い顔で言ってくれたのに、イルカ先生。これじゃもう着れない。
借り着は勿論家主のアスマのものだったから大き目でだぶつく。それがまたまるで拗ねた子供のようにカカシを見せていて、二人の上忍はこっそり溜め息を吐いた。
腑抜けてるよ、コイツ。
暗部でカカシが高い評価を得ていた理由は写輪眼だけではないのだ。
容赦のない徹底した手口が仕事の完成度の高さへと繋がり、忍者としての信用になった。
通り名付きで他国の手配帳に乗るほどの。
けれど二人はカカシの変化を悪いものとは見てはいなかった。
そりゃあ木ノ葉隠れの里からしてみれば、優秀な忍びは一人でも多く必要だった。特殊能力者のカカシがたった一人の男に振り回されているなど笑い話にもならない。
それでも。
アスマもガイもこのカカシの変化を歓迎した。
可愛げが出たなとアスマは鼻で笑い、まともになったなあと業とらしくガイが頷くその変化は。
死んだ魚のような目をして薬を噛み砕きながら仕事に出かけ、手を洗っても血が落ちないと石鹸を床に叩きつけ、同衾していた女に噛み付き血だらけにしたり、酒の席でいきなりげらげら笑い出すようなカカシを見ずに済むようになったということだ。
「うぜえ」
だがアスマはそんな感傷をおくびにも出さず、うっとおしそうにカカシをにらみつけて言った。
「そんなん今更だろうが。てめえが元暗部で外道働きしてきたことなんざ、あの先生はとっくのとうにご存知だろうがよ」
「カカシ」
ガイも溜息を吐くように言う。
「イルカの何を見てたんだ?お前。あいつがどういう男かは知っているんだろ」
のろのろとカカシの頭が動く。ガイは子供を諭すような口調で続けた。よしんば、と。
「イルカがお前の過去に拘ったってそれは仕方ないことだ。事実だからな。お前が今までそういう生き方をしてきたことは。・・・カカシ」
ガイの目線がきつくなる。
「お前はそのことからは一生逃げられない。そんなことは分っているだろうが」
またカカシの頭が動き、ガイはもう一度溜息を吐いた。
「だったら逃げるな。イルカと甘いだけの恋愛がしたくたってな、目を逸らしてりゃしのげるってもんじゃないんだぞ。過去はなかったことには出来ない。それは分っているんだろう?がっかりさせるな。それでお前俺のライバルと言えるか」
でも、とカカシは低く言った。
ガイの声を背中で聞きながら俯いて、言った。
「俺はイヤだったんだ・・・」
「カカシ?」
「イヤだったんだ・・・」
俺の手を優しいと言ってくれた。
あんな人は初めてだったんだ、とカカシは呟く。
俺よりてんで弱いくせに、俺よりずっと強い人。全然叶わないと思った。
だからカカシは錯覚した。
このキレイで優しい強い人と一緒にいれば自分もそうなれるかと。そうしたら、もうずっと一緒にいられるのかと。
同じものを見て綺麗ですねと笑い合い、同じものを見て幸せになれるかと。
「だから、あの人に見られたのがイヤだったんだ」
写輪眼のカカシ。元暗部。言葉で聞くだけならまだしも。
あんな風に見せてしまうなんて。
自分はどんな顔で彼等を殴っていたのか。要領よく骨を砕き、えげつなく戦意を喪失させ、それでもまだ更に。
仕事では当たり前のことだった。自分の特殊な能力を外に洩らさない為にも、戦闘になれば確実に敵を全員屠った。そうしなければ次に転がるのは自分の死体だったから。
それでも。
イルカはどう思ったろう。
他人を殴る自分を見て。
効率のいい暗部のやり方。
頭で理解していても、いざ目の当たりにしたら、それでもあの優しいアカデミー教師はカカシの手を優しいと言ってくれるのだろうか。カカシの好きな、あの笑顔で。
アスマとガイは無言で視線を交わした。
こりゃ重症だ。
その時。
どんどんと玄関から扉を叩く音と共に大きな声がした。
「夜分すみません!」
カカシの背中が硬直した。
「アスマ先生、ご在宅ですね?すみません、イルカです!」
「・・・!」
おうよ、と声をかけてアスマは玄関の扉を開けてやる。瞬間、反対側の窓から飛び出そうとしたカカシはガイにカニばさみを喰らって顔から床へ落ちた。
「いきなり押し掛けてすみません。カカシ先生がいらっしゃらないかと」
「いらっしゃるぜ」
咥え煙草のアスマが親指で示したのは。
やあと歯を光らせにこやかに笑うガイに脚を挟まれ、こちらに尻を向けたまま突っ伏しているカカシだった。
「カカシ先生!」
「イッ・・・イルカ先生・・・っ」
慌ててガイを突き飛ばすカカシ。その顔が見る間に真っ赤に染まるのに頓着せず、イルカは笑った。
「六軒目です」
「は・・・?」
「六軒目で捕まりました。これって及第ですかね」
そう言ってイルカは照れたように笑った。最初にあなたのお宅に行って、それから俺んちに戻ってみて。ナルトの家とサスケの家と三代目のお宅に。サクラの家は家族がいるし、女性のお宅を夜訪問はし辛いので紅先生は外して、ガイ先生のお宅にはアスマ先生の次にお訪ねするつもりでした。そう言ってイルカはもう一度笑った。
「カカシ先生急に走り出すんですから」
「イルカ先生・・・その・・・」
「・・・大丈夫ですよ。直ぐに救護班が来ましたから」
「・・・!!」
ますます赤くなって、カカシは顔を背けた。その背中に向かってイルカは優しく言う。
「明日、一緒に病院行きましょう。あちらも一晩経てば落ち着いて話してくださると思いますからお互い・・・」
「じゃあなくてっ!」
下を向いてカカシは叫んだ。悲痛なその調子にイルカの顔が歪んだ。
「カカシ先生・・・」
「・・・じゃなくて・・・イルカ先生、ご覧になったでしょう?よく、お分かりになったでしょう・・・?」
自嘲するようにカカシは笑った。アスマの家の床が歪んで見えるのが情けない。
「俺、ああいう奴なんです。・・・イルカ先生にお付き合いしていただいて、少しは真っ当になれたつもりだったんですけど・・・結局そうなんです」
「カカシ先生?」
「簡単に他人を壊すことが出来るんですよ。・・・なんでしょうね、もう考えなくても出来るんですよ。反射みたいなもんなんでしょうね。お里が知れますよね」
あはは、と乾いた声をたててカカシは笑った。
結局。
「結局、俺はまともじゃないんです」
「カカシ先生!」
子供の頃から忍びだった。騙して奪って暴いて殺して傷つけて。そんな仕事に就きながら今まで生き抜いてこれたのは、それだけ多くの人間を踏み台にしてきたということで。
そんな考え方はよくないと叱ってくれた人も、最後は他人の為に死んでしまった。
顔を逸らしたまま早口でカカシは続ける。
「だってそうでしょ、まともな人間はあそこまでやります?やらないですよね、普通頭の中でストップかかりますものね」
浴衣。血塗れの。
似合うって言ってくれたのに。
「カカシ先生」
「ごめんなさい、アナタに迷惑かけてしまった。俺が自分のこと弁えないから、だから・・・」
「いい加減にしなさい!!」
大声で怒鳴りつけられ、カカシは固まった。恐る恐る見上げると。
イルカが怒っていた。顔を赤くして、カカシを睨みつけている。
目を丸くしたガイの隣からおい、と声をかけてくるアスマの腕をつっぱねてイルカは低い声で吐き捨てるように言った。
「いい加減にしなさい、カカシ先生」
「・・・イルカ先生」
「アナタの悪い癖だ。自分を必要以上に卑下しないで下さい。そんなの・・・見ている方が辛い」
「イルカ先生」
黒い瞳に悲しげな色を浮かべ、イルカは怒っていた。
「喧嘩になった原因は俺の方です。俺が下手なちょっかい入れたからです。カカシ先生は俺を庇って下さったんじゃないですか。俺と・・・ナルトを」
「・・・!・・・お、俺は・・・」
「迷惑をかけたのは俺の方です。すみません・・・」
イルカは頭を下げた。乱れた髪がその額に掛かる。
「や、やめてくださいよ。イルカ先・・・」
慌てて顔を上げさせようとしたカカシの手を掴み、イルカはその顔を覗き込んだ。
「イル・・・」
「あなたは」
悲しそうにイルカは呟く。以前から思っていたと。
「何をそう引け目に感じてらっしゃるんですか?なんでそんなに自分を貶めるんですか?」
「だって・・・俺は」
「元暗部で人殺しだからですか?」
「・・・!!」
青褪めるカカシの顔を見据えたままイルカは静かに続ける。
「そんなの、あなたの仕事でしょう。忍者として生きると決めた時から分っていたんでしょう」
「・・・・・・」
ガイがアスマをちらりと見た。アスマはガイに顎を上に上げてみせただけで二人を見ている。
「カカシ先生・・・俺の仕事を正しくご存知ですか?」
「え・・・」
イルカは目を逸らさずカカシに言う。
「あなた方は身体を張って里の為に働いていらっしゃる。傷付き、血を流し、泥の中を這いずり回って。必要に応じて誰かを騙すし、女子供も手にかけるかもしれない」
「・・・やめて下さい!」
目を逸らし、逃げようとするカカシの肩をイルカは掴んだ。容赦ない力でもって。
「やめません。でもそうやって世間で汚いと言われる仕事をこなす上忍の方達がこの里を支えている。里の外で皆さんが命を賭して果たした任務が木ノ葉隠れの里の信用になっている」
「・・・・・・っ」
「・・・俺の仕事はアカデミーの教師です。幼い子供達に人の殴り方や騙し方、誤魔化し方や危険な薬や毒草の扱い方を教える仕事です」
え、とカカシの目が開く。イルカの顔を見据えるのに、彼は目に力を篭めたまま、言う。
「自分自身は里から出ずに、自分達の手は汚さずに、将来子供達が死地に赴く準備をしてやる仕事です。・・・カカシ先生」
黒い、瞳。静かな、声で。
「こちらの方がよっぽど外道な仕事だと、思いませんか?」
肩を離され、カカシは凍りついたようにイルカを見た。
イルカは寂しそうに笑って、
「けれど、俺は忍者ですから。それが俺の仕事です。俺の選んだ仕事です」
「・・・イルカ先生」
「だから俺は子供達に一生懸命教えます。人体の急所や危険物の取り扱いや忍具の効率のいい使い方を。彼等の生き残る確率が高くなるように」
例え。
「例え誰かを傷付けても」
だって。
「あの子供達は忍者として生きることを選んだのですから」
そう言ってイルカは泣きそうな顔でもう一度笑った。
「イルカ先生・・・」
「だからあなたが引け目を感じることなんてないんです。・・・ずっと」
酷く言いにくそうに、けれどはっきりとイルカは言った。
「ずっと不思議に思ってました。カカシ先生、俺はあなたが思ってらっしゃるほど立派な人間じゃあないです。あなたは俺を随分上に見て下さっているようですけど、俺に言わせりゃ、あなたが俺に付き合って下さってるってことの方が吃驚ですよ。俺は生野暮でつまんない男でしょうに、あなたみたいな・・・」
「イッ、イルカ先・・・」
「でも俺」
不意にイルカは耳まで真っ赤になった。それは先ほどまでとは違う色で。
「あなたと離れたくないです。・・・その、釣り合わないって言われても。図々しいと思われるかもしれませんが」
「・・・・・・え」
「だから、その・・・カカシ先生」
先ほど上忍のカカシを怒鳴りつけた勢いは何処へやら。
「出来れば、カカシ先生にも思っていただきたいんです。同じように思っていただきたいんです。その・・・俺とのことを」
「・・・いいんですか」
お日様みたいな人だと思った。
興味を持った。親しく出来たらと思った。
「いいんですか・・・?俺みたいなので。だって俺、元暗部だし、汚い仕事もいっぱいしちゃったんですよ・・・?まともじゃないし常識ないし・・・」
はい、とイルカは嬉しそうに笑う。
本当に、嬉しそうに。
「カカシ先生がそうおっしゃるなら、元暗部で汚い仕事もいっぱいなさってて、まともじゃない常識のないあなたが好きなんです、俺は。だって」
だって。
「俺にはあなたのいいとこが山のように見えますから。いいとこも悪いとこもみんな含めて『あなた』が好きなんです」
「・・・・・・・・・イルカせんせい・・・」
「だから、あなたも好きになっていただければ・・・その、嬉しいんですけど。俺は格下でぱっとしなくてそのくせ頑固で要領の悪い奴ですけど・・・でも」
「オマケに身の程知らずで後先考えない脊髄反射で思い込みが激しいと来てる」
「はあ・・・」
「でも」
その先は言ってやらない。
でも。
カカシは笑った。
泣きそうだった。
やっぱりこの人って。
「イルカ先生―!」
「え、わああっ?!」
「あ、コラ、てめえら他人の家でサカってんじゃねえ!」
「はっは、青春だなあ、オマエラ〜!」
「ねえ、これって『雨降って地固まる』ってやつぅ?」
うきうきと尋ねてくる馬鹿の伸び切った鼻の下にアスマとガイはうんざりとした目を向けたまま一言も口を利かなかった。
朝(と言っても限りなく昼に近い朝だったが)三代目から呼び出しがあってカカシは斡旋所までやって来た。どうせ昨夜の喧嘩のことで大目玉を喰らうに違いない。だがカカシは気にしてはいなかった。昨夜別れ際、イルカが言ってくれたのだ。
「カカシ先生」
カカシの好きな恥ずかしそうなあの笑顔で。
「まだ後二晩お祭りですよね。改めて付き合っていただけますか?」
付き合うともさ、イルカ先生!イヤむしろ付き合え、イルカ先生!くらいのイキオイだった。
だから斡旋所に着いた時、その場にいたアスマとガイにそう言ったのだ。だが何故か二人は恐ろしく機嫌の悪そうな目でカカシを睨むだけだった。
「なんだよお、友達の幸せを一緒に喜ぶくらいの心を持ち合わせてないのか、オマエら」
誰が友達だ、ふざけんなという顔の二人の後ろから声がかかる。
「こりゃ、カカシ!来たのなら早うこっちへ来い!」
呼び出しからどれだけ経ってると思うんじゃ、年寄りを待たせおってとカウンターの中から説教する火影の後ろに引き攣った笑顔のイルカを見つけ、カカシは大喜びで手を振った。イルカ先生今日は何時まで仕事なんだろう、早目に上がれるんだったら待ち合わせして浴衣買いに行こう。イルカ先生に見立ててもらったのを買って、お祭りに着ていこう。カカシはうっとりとそんなことを考えていた。
「こりゃ!」
げいん!
いきなり頭を殴られそちらを振り向けば三代目がカウンターに片足をかけていた。カカシの足元には三代目愛用のパイプが転がっている。どうやらこれをぶつけられたらしい。
「イタイじゃないですかあ〜」
「やかましいわ。用があるから呼んだんじゃ。きちんと話を聞かんか、痴れ者が」
「はぁい」
イルカせんせえ、後でね〜とひらひら手を振っていると。
「早速じゃがの。隠の国に行って貰う」
は?
「隠の国って・・・あの岩と砂の間の・・・?」
「そうじゃ。直ぐに出立して貰いたい」
じょっ。
冗談じゃあねえぞ?!ジジイ!
「な、なんで?なんでなんでなんで?!」
「唾を飛ばすな」
「何でですよ?!だって俺下忍指導員ですよ?そんな遠くにこんな急に・・・!」
「自業自得じゃ、うつけ」
「・・・え?」
「本来この任務はカジキ達が受けることになっていたんじゃよ」
妙に力を篭めて言われ、気付く。
「・・・カジキ・・・」
「カジキ、撞耶、アジロの三人じゃ」
あのぉ・・・それって。
「昨夜誰かさんが叩きのめした三人と言うわけじゃ!」
ビンゴ!
「知っての通り里は慢性的な人手不足じゃ。その三人もここ半年ほど碌に休みもとっておらん。一昨日凪の国から戻って、昨日一日だけ休んで今日の昼前に出立して貰う予定じゃったんだがのう・・・」
げろげろ。
三代目は地を這うような声で続ける。
「カカシ。言わせんぞ。何も言わせんぞ。隠の国に行くんじゃ。アスマとガイと三人でな。Aランク任務じゃ、二月は帰れんだろうが頑張って務めよ」
それとも、と引き攣った顔で食い下がろうとしたカカシをじろりと睨んで。
「三人の診断書を見てみるか、カカシ?」
固まるカカシの両の肩にぽんと手が置かれる。
「そういうこった」
「よろしく頼むな」
いきなり予定外のハードな任務を押し付けられた二人から発するおどろおどろしいチャクラが怖い。感情のこもらない棒読みな台詞回しも怖い。肩に食い込む指の、必要以上の強さは何?!
「ちょ、待って、だってガキ共は・・・」
「紅がまとめて見てくれるってよ」
「他の下忍指導員の連中も協力してくれるそうだ」
がし、と両腕を拘束され、ずるずると引き摺られる。
「だって、そんな二月って・・・せめて今夜は・・・」
「昼前に出立予定じゃったと言うたろうが。もう先方には連絡がいっとるんじゃ。直ぐ行け」
嫌味たらしく手巾を振る三代目が冷たく言い放つ。
「イルカ先生!!」
「・・・お気をつけて」
縋る思いで名を呼んだ恋人に、気の毒そうに、申し訳なさそうにそう言われ、カカシは喚いた。
「いやだー、お祭り行くんだー!」
「ふざけんなてめえ往生際が悪いぞ」
「離せー!イルカ先生とお祭り行くんだー!!」
「諦めろカカシ」
「諦めきれるかー!!!」
「みんなてめえが悪いんだろうが!あれほどこっちにケツ持って来んなと・・・!」
「いたたっ、蹴るな、カカシ!」
「イルカせんせえー!」
「ははは・・・」
廻る因果の風車。
泣き叫ぶカカシの声は里の大門を出て、山を越えるまで聞こえていたそうで。
人生って難しい。
悪いことばかりじゃないのは確かだけれども。
どっとはらい。
完