イルカ先生、と呼ばれて振り返れば、いのが立っていた。夕飯の買い物にと立ち寄った八百屋から出てきたところだった。
 「お久し振りですー、今帰りですかー?」
 お買い物?と遠慮なく袋の中を覗き込むようにする元生徒の少女は長い髪をすっきりと編み上げ、浴衣を着ていた。
 「お、おう。なんだ、いの、今日は任務休みだったのか?」
 実は一瞬判らなかった。見慣れた泥だらけの下忍姿のいのしか知らない俺は、目の前の大人っぽい格好で笑っている彼女に誰だっけ?と思ってしまったのだ。アカデミーの頃から大人っぽい顔立ちの、ませた印象の子だったが、改めて見ると背も伸びて本当に女らしくなったなと思う。
 「そうなんですー。で、ヒマなら店手伝えって、親がー。もう、却ってタイヘン」
 それでもそう言ってぷうと膨れるさまはまるっきりの子供で、肩を竦める仕種の艶っぽさとの不釣合いに俺はつい誘われるように笑ってしまった。
 「えらいじゃないか」
 「ええー、でもうちの親けちだからバイト代くれるわけでもないしー、任務してた方がよっぽどマシですー」
 「仕方ねえだろ、看板娘なんだからよ」
 「だからあ」
 紺地に流れる水の模様と柳の葉が描かれている大人っぽい浴衣に、なんという結び方か、帯を高めにきりりと締めたすらりとしたいのの姿は格好よかった。言っちゃなんだが、サクラやヒナタには似合わない、大人のような拵えだ。
 「うっかり店番なんかしたら、悪いじゃないですかー。アタシいつもいるわけじゃないのにお客さんに期待させちゃったらー」
 「・・・ははは、成る程な」
 「それにぃ、アタシもう心に決めた人がいるんですからあー」
 誰かって聞かないと機嫌悪くなるんだろうな、と俺がぼんやり考えていると、不意にいのは大声で聞いてきた。
 「ああ!そうだー、先生、サスケ君今日の任務ご存知ですかあー?」
 「・・・七班は・・・確か今日は午後からの任務だから戻ってくるのは夜になるって聞いたぞ?」
 「なんだー、残念ー」
 浴衣を見せびらかしたかったのだろう、ちょっと可哀相なくらいいのはがっくりと肩を落とした。
 にしても、サスケはもてるな。
 こんなに女の子に騒がれるのは俺が知ってる限りじゃサスケと・・・ネジくらいだ。ネジの方はどこか他人を寄せ付けない雰囲気があって(そこがまたクールで素敵と女の子達はうっとりするらしいが)皆遠巻きに眺めていただけだったが、サスケには果敢にアタックする子が何人もいて、誕生日やらバレンタインやらイベントの度に騒ぎになったもんだ。
 「残念だったな、折角めかしこんだのに。シカマルやチョウジに見せてやったらどうだ?」
 やあだ、なんでー?と残酷なくらい正直な反応を見せたいのは、不意に慌てた素振りを見せ、早口で先生、今何時ですかー?と聞いてきた。
 「そろそろ六時半だぞ?」
 「いっけない、まだまわるとこいっぱいあるのにー」
 「お客さんとこか?」
 「ええ、お店の方に行かなきゃならないとこもあるからー」
 閉店前に行かないと。
 そう言ってから不意に悪戯っぽく笑った。
 「先生にも、あげよっかー?」
 「え?」
 「直、七夕でしょ、今日は確認にまわってるんですー、笹の注文の」
 だからウケ狙ってこんな格好でまわってるの、と言っていのはシナを作った。
 「美少女くノ一の艶姿でお客様サービスっていうかー」
 「・・・ははは成る程」
 「・・・先生目が泳いでるわよ・・・」
 とにかく、と胸を反らすといのは言った。
 「先生の分も追加しとくから、お店まで取りに来てねー。忙しいから配達勘弁してもらうけど、どうせ先生アカデミーの往き帰りにうちの前通るんだからいいでしょー?」
 「お、おい、いの・・・」
 「安心してー。サービス、サービス。薄給に打撃あたえるような真似はしないですよー、先生にはお世話になってますもんー」
 サスケ君と一緒の班にはして貰えなかったけどねー。そう言って色っぽく睨むとけらけらと笑って、じゃあアタシ急ぐからといのは手を振った。
 取り残されたような形になって口をあけたまま呆然としてしまった俺だが、店の前に立たれると邪魔よお兄さんと買い物のオバさんに注意され、慌てて謝って店から離れた。
 なんというか。
 いのもサクラもそうだが・・・恋する女の子はいつも凄いパワーだ。
 サスケがいくら面倒臭そうに眉間にシワをつくって睨んでも、その場ではしゅんとするけれど、諦めず何度も何度もチャレンジしてくる。
 一生懸命作った手作りのプレゼント、振り向いてくれるようにと髪に新しいピンを止めてみたり、こっそり掛香をつけてみたり。
 「・・・はは、俺、負けてるなあ」
 こっそり彼の愛読書を読んでみるくらいしか出来ない自分がひどく情けない気がして苦い笑いが浮かぶ。
 そりゃ、俺だって。
 「俺だって、なあ・・・」
 恋人にしてくれるの?と聞いてくれたカカシ先生は俺に優しかった。カカシって呼んでいいよと言ってくれて、照れて出来ない俺を、か、可愛いと笑ってくれた。
 好かれて、いるのだとは思う。
 けれど。
 俺は未だ彼の手ひとつ、理由がなければ握れないでいる。
 彼も、俺には触れてこない。
 ただ、食事をしている時に無造作に、これも試してみますかと渡されるコップや、はいあーんなどとふざけて差し出される箸に、どぎまぎする俺を見て面白そうに笑っている彼見ると、俺は自分がひどくふしだらな考えをもっているような気分になるのだ。
 それでも。
 何度か、口に出したことはあるのだ。
 食事が終わり、話に区切りがつくとそれじゃあそろそろと立ち上がるカカシ先生に。
 遅いから、泊っていきませんかと。
 よろしかったらですけれど、なんて煮え切らないような情けない調子で続けられる俺の言葉を、カカシ先生は例の小首を傾げるような仕種で困ったように、
 「すみません、せっかくのお誘いなんですけれど、俺明日朝早いんですよ〜」
 そう言ってやんわりと断ってくれる。
 その言葉は確かに嘘ではなくて、翌日午前中からカカシ先生は任務なり訓令があったり、上忍の会合があったり(いちいち調べてしまい、その度にひどい自己嫌悪に悩まされる俺はホンモノの馬鹿かもしれない)したのだが、俺は自分のさもしい考えを見透かされてかわされたような気分にへこむだけへこんでしまう。
 ・・・カカシ先生はひょっとしてプラトニックラブの信望者なのだろうか?
 そう思ったりもした。だから彼の愛読書を読んでみたりもしたのだ。そんなに気に入っている物語なら、カカシ先生の好みが判るかもしれないと思って。少しでも、彼の趣味に合わせられればと思って。
 だのに。
 濡れ場だらけの本を手に、俺は途方に暮れるばかりだった。

 

 

 写輪眼のカカシ。
 それがその人の通り名だった。コピー忍者と呼ばれる異形の目を持つ暗部上がりの凄腕。
 三代目に見せて頂いた『上忍師』の中で、彼を表す数字は俺をひどく驚かせた。
 担当した下忍採用は合格者ゼロ。
 アカデミー卒業が五歳、中忍昇格が六歳。
 そしてなにより。
 Sランク任務三十八回と言う驚異的な数字。
 そしてそれだけの数のSランク任務を経て現役という事実。死亡どころか後遺症もないという。
 どんな人なのかと思った。
 それなのに。
 ナルトやサスケやサクラに取り囲まれるようにして、初めましてと笑って手をさし出され、そのぽやんとした雰囲気に驚いた。おっとりとした口調で、
 「イルカ先生でしょ、お噂はカネガネ」
 そう言われ、俺ははあ、と馬鹿みたいな返事を返した。
 ああ、笑うと目の際に笑い皺が出るんだ、なんてぼんやりと思った。
 またそのうちと笑って、一楽一楽と叫んでいるナルトを引き摺るように彼が出て行ってから暫く経ってからだった。昇格年齢だの任務遂行数だのの恐ろしい数字を俺が思い出したのは。
 だが、それはもう既にぼんやりとした印象でしかなく、またそのうちと言って小首を傾げるように挨拶してくれたカカシ先生の柔らかい声の方が強かった。
 気恥ずかしい話だが。
 もしかしたら、あれが一目惚れなんてヤツだったのかもしれない。
 自覚したのは随分後の話だったが。

 

 

 念願の忍者としての生活はナルトにとっては興奮の連続だったらしい。今日の任務はああだった、こうだったと事ある毎に報告に来てくれた。
 尤も、任務に対する期待は最初のうちだけで、後はどんどんつまらないEランク任務に対する愚痴ばかりになった。当たり前だろう、お前まだヒヨッコなんだぞと俺はその度一々言うのだが、自分の未来に過度の期待を寄せているナルトには馬の耳になんとやらだった。
 俺の言うことなんぞ耳も貸さず、一頻り任務に対し愚痴った後は、チームのことを、サクラが今日も可愛かったとかサスケがまたエラそうだったとか、それから、カカシ先生の批判だか賞賛だか分からないことを話し出す。
 初めて三人が身近に接した上忍であるカカシ先生は、能力で尊敬を得、性格や行動で軽蔑されるのを繰り返していたらしい。
 上がり下がりの激しい、ジェットコースターのような評価だった。
 「まあその内分かるでしょ、いっぺん痛い思いすれば」
 そう物騒なことをさらりと言ったのはそのカカシ先生だった。初めて一緒に食事をした時だった。混み合った飲み屋のカウンターの隅で、俺の話を聞いていたカカシ先生は笑いながら言ったのだ。
 「やっかいなもんでね、そうでもしないと現実って分かり難い」
 「ですが・・・」
 「アナタにも覚えあるでしょ?イルカ先生」
 眠そうな半目を更に細くしてカカシ先生は謡うように言った。
 「その時がくればアイツ等嫌でも気付きます。ナルトの根拠のない自信もサスケの極端に狭い視界もサクラの頭でっかちもみんな吹き飛びますよ」
 そしたら。
 「アイツ等どうするでしょうねえ」
 面白がっている口調だったが、悲しそうに寂しそうにも俺には聞こえた。そしてそう言うカカシ先生の目の色はとても優しくて。
 俺は唐突にこの人はいい教師なのかもしれない、とその時思った。
 「ま、あまりその授業料が高くつかなきゃいいんですけどねえ」
 俺の時は高かったなあ、物凄く、と小さな声で洩らしたカカシ先生はどんくさい俺が聞き返すより先に大声でオヤジさんお銚子もう1本追加ねえと叫んだ。